全米共和党顧問・饗庭(あえば)直道
”私たちは自分の手で、子や孫に本当のことを伝えていく必要があります”
覚醒してから、常々そう思っている中、一人でも多くの人に知ってもらいたい内容が多々ありますが、今日はそのなかの一つを久々にご紹介させていただきます。 どうか、最後までお読みくださいませ。
歴史通1月号より
ナニが性奴隷ですか!
父は慰安婦の”赤ひげ先生”
元福岡女学院大学非常勤講師 麻生徹男氏二女・天児 都(あまこ くに)
降りかかる火の粉を払いのけ、偽りの歴史教育を廃しましょう!
■濡衣塚の伝説
福岡市の御笠(みかさ)川と国道3号線にはさまれた石堂橋のたもとに、「濡衣塚」という古跡があります。「無実の罪を負わされる」という意味の「濡れ衣」の語源となったとされる伝説で有名です。その伝説は『筑前続風土記』<聖武天皇の頃(724〜749年)、佐野近世(さのちかよ)と云う人が、京より筑前の守(かみ)として就任したが、京から連れてきた妻が亡くなり、筑前国の女性を後妻とした。後妻が先妻の娘を殺そうとくわだて、海人(あま:海に潜って貝類や海藻を採集する漁を生業とする人)に金品を与え「姫君が夜な夜な私の元に来て釣り衣(着物)を盗んでゆく」と噂をいうように仕組んだ。それを聞き起こった父親が娘の所に行くと、娘は噂通り「濡れた衣」をかぶって寝ていた。これは実は後妻が娘が寝入ったときに着せたものであるが、父は激怒して娘を殺した。その翌年、殺された娘が父親の夢に出てきて二首の歌を詠んだ。父親はその娘に罪が無いことをさとり、後妻を里に返し自分は出家した>
この言い伝えにより、身に覚えのない罪を負う事を「濡れ衣」を着るというようになりました。私の父、麻生徹男(あそうてつお)も、この伝説のごとく濡れ衣を着せられ、今もなお、その誤解は流布され続けています。
(※参考:麻生徹男ーWikipedia )
1989(平成元)年に亡くなった父は、37(昭和12)から41(昭和16)にかけて、日本軍の軍医として中国戦線にあり、この間に慰安婦と慰安所の写真資料と慰安婦に関する論文一篇の第一級資料を残しました。
しかし、この資料が悪用され、父は「慰安婦強制連行」の責任者のごとく言われるようになったのです。
1993年8月、河野洋平官房長官が発表した、いわゆる「河野談話」により、韓国が盛んに日本の政府に「慰安婦問題の関係者を処罰しろ」と声高に主張しはじめて、その折、私の父のことも話題にのぼりました。ジョージ・ヒックス著『慰安婦』(1995年)は、韓国人のゴーストライターが書いたもので、父について真実ではないことを書いています。
(※参考: ジョージ・ヒックス著『性の奴隷 従軍慰安婦』←ちなみに、本の内容紹介には以下のように書かれています。↓
・著者ジョージ・ヒックスは公文書、慰安婦へのインタビューをとおして、日本政府が隠蔽しつづけている組織された慰安制度を解明、暴露する:「BOOK」データベースより
・いまだに罰せられていない戦時の日本の蛮行、従軍慰安婦制度。当時の公文書、元慰安婦へのインタビューを通して日本政府が隠蔽し続けている組織されたその制度を解明:「MARC」データベースより)
韓国人たちは「慰安婦強制連行」の責任者として父の処罰を求め、父が既に鬼籍(きせき)に入っている(死亡している)と知ると、娘の私のところに押しかけてきました。当時、私は病院に勤めておりましたが、勤務先にまでしつこく電話をかけてきたのです。
この降りかかる火の粉を払いのけるという意味で、『上海より上海へ』(1993年、石風社)を上梓(じょうし)しました。それは、父が兵站(へいたん)病院の軍医だったころに記した日記をもとにして綴った回想録です。慰安婦たちや慰安所の写真も掲載しました。この本を上梓し事実が世に出てから、資料をとりに来る者はなくなり、非難する声も小さくなり、非常に楽になりましたが、それでも事実を確認せず、いまだに父に濡れ衣を着せようとする人たちがいます。その原因は千田夏光著『従軍慰安婦』(1973年)に父が強制連行の責任者のようにほのめかして書いてあるからです。
(※参考:千田夏光(せんだかこう)−麻生徹男軍医に関する虚偽記載と謝罪 )
また、日本も、中国や韓国から濡れ衣を着せられています。慰安婦を韓国は挺身隊とか性奴隷と言っていますが、事実ではありません。そうだとわかっているならいいのですが、最近の、歴史を正しく知らない人たちが、無意識のうちに朝鮮・韓国側になびいていることが心配でなりません。その状況を打破するために、若い人たちに資料を公開しようと、2010年『慰安婦と医療の係わりについて』(梓書院)を上梓したのです。
■「花柳病ノ積極的豫防法」
父・麻生徹男は昭和21年南太平洋の戦地から復員して、祖父の跡を継ぎ産婦人科医として福岡市で働き始めました。昭和32年9月、博多の情報誌「うわさ」に、「戦線女人考」という中国戦線における体験をもとに書いた一文が掲載され、慰安婦のことを紹介しました。
(※参考:「従軍慰安婦」 軍医麻生徹男「戦線女人考」(写真集):真実を知りたい さんブログ)
父は学生時代から亡くなる直前まで日記をつけており、手紙を受けたこと、誰かに会ったこと、その住所や連絡先などが記されています。これらと書簡をもとに、退院後は「残務整理」と称して精力的に自分の撮った写真を整理し、自分自身の体験を書き残しました。
父が戦争中に書いたのは、1939(昭和14)年、九江軍医分団の研究会にて花柳(かりゅう)病について講演し、陸軍に提出した「花柳病ノ積極的豫防(よぼう)法」という性病対策レポートです。
(※参考:「従軍慰安婦」と軍医 麻生徹男)
その父のレポートには、検黴(けんばい:梅毒に感染しているか否かを検査すること)、禁欲、花柳病(性病・性感染症)の認識、狭義の予防法などが書かれております。約100名中、20名程の邦人に花柳病罹患(りかん)者が多く、年齢も高かったことを語り、その結語に、「アルコールの制限、即ちこれに代わるものとして、より高尚なる娯楽施設を必要とす。音楽、活動写真、図書あるいは運動が良い。娼楼(しょうろう:女郎屋)にあらざる軍用娯楽所の設立も希望す。斯(か)くして自ら禁欲を意とせざるの良風を養成す可(べ)きなり。検黴は的確にして厳正なるべし」と書かれています。
レポートでは娼楼ではない軍用娯楽所(音楽、活動写真、図書など)設立を希望しているのに、なぜ強制連行と結びつけるのでしょうか。娼婦は必要不可欠であると訴えたかのように読み間違え、事実を検証しないまま、広めた人たちがいるのです。
■軍隊における性病対策
父の戦争体験は、中国大陸と南太平洋のニューブリテン島ラバウルの2つの地域でのことです。1938(昭和13)年始めに慰安婦検診を命ぜられ、慰安婦とかかわるようになりました。
慰安婦については、医療の問題を抜きにしては語れません。そもそも、慰安所が作られたのは、性の管理と、性病の予防管理のためという2つの目的のためです。
江戸末期から明治初期にかけて、日本人女性にもイギリス軍及び他のヨーロッパ諸国の慰安婦だった人たちがいました。
日本国内では駆黴(梅)(くばい)院(=娼妓が性病に罹患しているか否かを検査し、罹患していればこれを治療した病院)が1867(慶応3)年、横浜にでき、次いで長崎、神戸にできました。
港で売春を行う娼妓(しょうぎ)の梅毒罹患の検査を提唱し、巡回指導したのは、英国の軍医ニュートンです。江戸末期に横浜、長崎、神戸に英国の医師が駆黴院を作ったのは、船で寄港するイギリス人及び他のヨーロッパ人の性病感染予防のためであり、これは植民地政策により海外に発展していたヨーロッパの国々の性病対策の方式でした。これにならって日本も明治初年に駆黴院を日本各地に設置していきました。
その後日本政府は1871(明治4)年に駆黴院をつくるように民部省が示達(じたつ)し、72(明治5)年に大阪、74(明治7)年東京、79(明治12)年福岡に駆黴院が設立されました。明治14年に英国軍の交代時期を利用して、日本は独立して自分たちで検診を行うようになりました。
日本軍は1918(大正7)年〜22(大正11)年のシベリア出兵の折に、梅毒感染による戦力低下と、その後の壮年層の死亡多発の打撃が大きかったため、その後外地において、慰安所を軍が管理して性病対策を行うようになりました。ヨーロッパのやりかたにならって、上海の慰安所において慰安婦検診を陸戦隊員、領事館警察の立会で週2回行うようになったのです。
慰安婦は、大東亜戦争の終る1945(昭和20)年8月15日まで続き、その数は推定8万〜14万人と言われています。また、大東亜戦争後、アメリカ軍の慰安婦にされた女性も大勢いました。
■婦人科診察台とコンドーム
父の残した資料は民族間の紛争をあおるため、また、性的興味のために扱われるものではありません。
父が強制連行の責任者であるかのように扱われた時、「誤解を解くために、事実を書いて本にしたらどうか」と言ったことがありました。しかし、父は「自分は事件の当事者であって、それを解釈するのは他の人なのだ。だから私は自分の体験したことだけを手記として残しておく」と言いました。事実だけを述べる科学者の態度に徹していて、また、後の世代への信頼感がありました。
どうか、この父の思いを正しく受け止めてほしいのです。
そこで、私は戦時中の父の日記をまとめた『上海より上海へ』の本の中に、「花柳病ノ積極的豫防法」レポートと、慰安婦関係の写真「戦線女人考」を一括して入れました。父は趣味で写真をやっていまして、昔は今ほど写真に通じた方もいないので、部隊長から写真を撮るように命ぜられていたそうです。
その中には、写真?のような、父の考案による「婦人科診察台」もありました。また、写真?は「突撃一番」というコンドームです。
(※参考:突撃一番ーWikipedia)
※なお、写真は、歴史通1月号にてご覧くださいませ。
これを本に掲載したのは、慰安婦との係わりは医療に関するものであり、1937年当時、日本が性行為感染に対する対応を行っていたことを知ってもらうためでした。
(中略)
■戸塚弁護士の「性奴隷」発言
私たちは「慰安婦問題」を正していかねばなりません。そのためには、帚木(帚木 蓬生:ははきぎ ほうせい)さんのような方や、論客の方々のお力も必要でしょう。しかし、彼らに頼ってばかりではなく、まず、私たち一人一人が自分の国の歴史を正しく知ることが大切です。
父の残した資料を巡って、様々な人との出会いがありましたが、アメリカや中国、韓国人の視点で日本を見て、自国を貶めている人たちが多くいることは驚きでした。
「慰安婦問題」を利用してきた人たちがたくさんいます。国内はもちろん、国外においても日本叩きの道具にされ、日本に対する間違った認識が世界中に流布しているのが現状です。こうした中傷に迎合する人たちがいますが、誤った中傷や非難に反論できる人がたくさんあらわれてほしいと思います。
私は『上海より上海へ』を上梓した当時、まだ不勉強だったものですから「南京事件が起こったから、レイプ対策として急きょ日本で慰安婦を集めたのだ」と、慰安婦は南京事件の傍証(ぼうしょう=間接の証拠)と一般的に言われていたので、うっかりとその立場で解説を書きました。
しかし、父の日記、手紙、メモなどを調べ、資料をつぶさに調べていくと、決して南京事件の傍証などではありませんでした。他の方々の研究を見ても、南京事件は蒋介石と、その諜報機関の作り話であることがわかってきました。そして、それを極東国際軍事裁判で事実であるかのように語り、中国人に証言させ、また、その証言を日本人がいまだに信じつづけているのです。
「性奴隷」という言葉は、1992年2月25日に国連人権委員会で、戸塚悦郎弁護士が、慰安婦を「性奴隷」だとして日本政府を攻撃することに使ったのが始まりで、北朝鮮・韓国が挺身隊と共によく利用し、2007年以降にアメリカで使われるようになりました。
(※参考:従軍慰安婦で、日本の名誉を売った二人の弁護士 by藤岡信勝氏)
18世紀末よりヨーロッパで売春を取り締まるための法律が考えられましたが、各国は公法の中に売春認可を入れて体面を失うことは避け黙認の形をとり、実際問題として性病蔓延を防ぐために、他方の警察力を使って取り締まりを行ったのです。
日本も売春を犯罪とみなし、1873(明治6)年に犯姦条例(刑法)を制定しました。しかし実際には守られずに76(明治9)年1月に犯姦条例廃止。府県は売春を行政的に取り締まることとし、2月に娼妓梅毒検査規則を作り、77(明治10)年性病患者統計調査が始まります。
(※参考:統計表一覧 政府統計の総合窓口)
こんな難しい問題を何も知らない人たちが簡単に「性奴隷」と名付け、犯罪の中に入れられています。奴隷・レイプは犯罪です。私はこうした微妙な問題も常に意識して発言しています。
■強姦被害者4千人
終戦後、中国や朝鮮半島からの引揚者の中の在留邦人女性は、混乱の中でソ連や中国の兵隊や朝鮮人に乱暴をされ、妊娠したり性病に罹患した人がたくさんいました。女性たちは自衛のため髪を短く切り男性の服装をしましたが、それでも逃れることができず、妊婦の多くはそのような姿をした人たちでした。
戦勝国側の一方的な裁判で戦犯とされた人々の名誉が回復されず70年が経とうとしているこの国には、引揚時に強姦の被害を受けた人たちが少なくとも4千人いて、沈黙のままこの国の政治を見守っています。日本は敗戦国として賠償金を払っているのに、条約を締結した後にも補償と言ってお金を要求してくる諸外国の者たちにも、日本が受けた被害を明確に示すべきです。
ドイツではベルリン陥落後25万人の女性が被害に遭い、それらの被害はきちんと記録に留められています。たとえ密かに処理するような命があったとしても、ドイツのように、事実として資料は残すべきなのです。
父の資料をまとめ、また、自分自身も勉強を進めていくにあたって、問題の正しい解決において、資料がいかに大切であるかを知りました。
■いまだアメリカの洗脳の支配下に
歴史がきちんと学ばれていないところでは、嘘がとめどなく広がってゆきます。今もなお、日本の子供たちの教科書は、極東裁判で展開されたアメリカのウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(=War Guilt Information Program' 略称WGIP、戦争に対する罪の意識を日本人に植え付ける洗脳計画)によるマインドコントロールのもとにあります。
戦後60年以上の年月を経て、アメリカによるマインドコントロールの事実が明らかにされているにもかかわらず、日本人がいまだに自虐史観に閉じ込められ、日本が弱体化の一途をたどっているのは、自分達が受けた洗脳と言論弾圧に対する自覚がないからです。自分自身を正当に評価できていない状態にあるのです。
私たちは自分の手で、子や孫に本当のことを伝えていく必要があります。そして私たちも、親や祖父の世代を「悪」と切り捨て、戦後からの歴史を立ち上げている左派の流れにいつのまにか乗っていて、親や祖父の世代に対する感謝の念を表さずにきたことをお詫びすべきだと思います。
父祖の世代が命がけで戦ってくださったおかげで今日の私たちがあります。1919年に人種的差別撤廃提案を提出し、戦い続け、植民地支配からアジアの国々を解放したのは私たちの父の世代の人たちでした。
日本は好戦的な国々に囲まれ、戦いに引き込まれ、戦いを止めることができず敗戦を迎えました。
平和はお題目ではなく、自衛軍を持って周囲の国々に侵略を許さぬことにより守られます。戦いの勝者に法を守る精神の欠如がありますが、私たちは法の精神を掲げて気高く生きる国家として蘇(よみがえ)りたいものです。
そのためにも、偽りの歴史を教育から排除して、事実に基づいた教育を行い、自立した日本人の憲法をつくり、アメリカと対等の条約を結ぶことが必要です。政治の道具にされず、深い洞察力をもつ学問の基礎が日本に築かれることを願っています。
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歴史通 2014年4月号
出版社:ワック(販売価格 ¥860 )
上海より上海へ(石風社HPより)
麻生徹男[著] A5判上製260頁
定価:本体価格2500円+税
1993/08/15発行
兵站病院の産婦人科医 従軍慰安婦・慰安所 第一級写真資料 兵站病院の軍医が克明に記した日記をもとに「残務整理」と称して綴った回想録。看護婦、宣教師、ダンサー、芸人、慰安婦、芸妓、女給……戦争の光と闇に生きた女性たちを、ひとりの人間の目を通して刻む。従軍慰安婦・慰安所第一級写真資料。重要資料「花柳病ノ積極的豫防法」兵士の性病対策レポート。
※参考:【書評】
親子二代にわたる「祈りの書」-森崎和江
一九三七年の七夕の夜、中国との間で戦闘状態に入った。シナ事変と呼んだ日中戦争はやがて長期戦化詩、太平洋戦争へと拡大した。その三七年の晩秋に召集され、前線へと送られた一軍医の刻名な記録集が、今回遺族の手によって刊行された。麻生徹男著『上海より上海へ』である。副題に「兵站病院の産婦人科医」とある。
当時著者は九州帝国大学を卒業して産婦人科医となって間もない、若い父親だった。その手記を刊行した天児都(くに)さんは著者の次女で父出征の折は二歳。現在福岡市在住の産婦人科医である。
同書は私家本として著者が生前にまとめた『戦線女人考など』を中心にし、写真集「戦線女子考」をはじめ、「軍陣医学論文集」や陣中日誌その他加えたもので、日中戦争当時の占領地での陸軍の公私にわたる日常が、いきいきと描かれている。かつて私は私家本『戦線女人考など』を読む折を得て、ひどく感動し、この書の一般への刊行をひそかに願っていた。というのは、同書に朝鮮人従軍慰安婦のことが軍医である著者の体験を通して描かれている上に、写真もまた歴史資料としてこの上もなく貴重だ、ということもあった。けれどもそれ以上に、これら第一級の資料を残した著者の、日常性および非日常性にたいするあくことのない能動性に打たれたのだった。そうした姿勢なしには、戦場における性的慰安の対象である女たちのことも残らなかった。昭和の記録として、半世紀後の私たちの心をゆさぶる力となっている著者の情熱を、何よりも尊く思うのである。
著者はその私家本の序文に記している。「私達日本人は中国にとって善き隣人ではなかった。わが国振りの国民皆兵を思い、又一九三七年の南京に思いを馳せるなら、一億の大和民族之れ皆戦犯である。私は此の大和民族の一員として一九三七年より四年間、中支の大陸に居た」と。三七年の南京とは、日本軍による中国民衆の虐殺事件である。その直後に著者たちは南京へ入っているのだ。関連の写真も、とっている。
記録魔のように、こまやかに対象に接近して文章化し、一日も休むことなく日記をつけ、また留守宅に長文の便りを出し、趣味のカメラを多様に駆使して、時にスナップを、時に芸術化を、時に資料化をと、この一医師は軍隊の医師をはみ出して、何かに迫ろうとしつづけているのである。
こうした生き方が脈々と流れていたからこそ、慰安に関する軍隊への提言も、占領地の民衆の表情も、傷ついた兵士のことも、後世に残していただいた。単に著者が産婦人科医だったから、性の記録が残ったわけではない。そして死を目前にして、当時の体験のありのままを書き記そうと努められた心の内に、先の序文の、「私は此の大和民族の一員として」中支にいたのだ、という痛切なことばが、あたかも時代的原罪のようにひびいていたことを思う。
著者の体験から半世紀たって、やっと、私たち日本人は、一私人である自分の心の中をさしのぞきながら、当時の人間観がわが心の底にもこびりついていはしないか、と、反省するのである。そして、当時の一将兵が、この記録を残してくれたことの真意を、有難く思う。アジア諸民族の前に頭を垂れつつ、この記録にほっと救われた思いがする。
そして刊行に踏み切ってくださった遺族の、短い文章が持っている現代文明への批判をふりかえる。天児都さんは、父上の遺稿や写真が、旧軍隊批判という美名にかくれた個人たちの売名行為によって、さまざまに利用されたことをさらりと附記した。それら行為は私には、他民族とか女たちの人格とかを無視して痛みを感ずることのなかった、かつての日本人の人権意識の生き残りのように思えてしまう。同書は、親子二代にわたって表現された日本文化への、祈りの如き書だと、その刊行の必然を思いみている。
・多芸多才な軍医による戦時記録-中国文学者・高島俊男
この本の著者、麻生徹男さんは、九州福岡の産婦人科のお医者さんである。明治四十三年生まれ。四年前になくなっている。
昭和十二年の秋、二十七歳の時に軍医として大陸の戦線におもむき、三年あまりを上海・南京など長江ぞい各地で勤務した。この本は、麻生医師の手記、およびその間にとった写真を、没後娘さんがまとめたものである。
この本がめっぽうおもしろいのは、このお医者さんが、おそろしく有能で、多芸で、にぎやかな人だからだ。
その一々をかぞえあげるならば──
まず戦場の軍医はふつうの医者よりよほどいそがしい。本職は産婦人科だから兵隊相手のばあい性病が専門であるが、それ以外に外科の手術もするし精神科も見る。重傷でかつぎこまれた兵隊が死ねばあとしまつもする。「人間一人を灰に作り上げるには驚く程の薪が必要であった」とあるように、とことんめんどうを見たのである。
またレントゲン技師もやる。戦地のレントゲンだからまず電気を作り出すことから始めねばならぬ。したがって部隊の発電機担当者である。移動式X線装置の駆使に関しては国軍第一と陸軍省医務局長からおほめをたまわったそうだから半端な技師ではない。
このことでもわかるように、このお医者さんは機械に強い。特に自動車が好きである。国産車の性能がうんと悪かった昔のこと、まして戦地だから、整備も修理もやれてはじめて自動車好きだ。そういう人はめったにいないから、この人は部隊の全車両の整備責任者である。あわせて兵器一切の補修担当者である。兵站部隊だから大した兵器はないのだろうが、それにしても便利な人だ。
ずいぶんといそがしいだろうに、毎日丹念に四種類の日記をつける。英文日記、独文日記、陣中日記、業務に関する資料提出日誌。そのうえ留守宅あての通信。まめだねえ。
自動車以上に好きなのが写真である。お母さんの家が写真屋だったので子供のころからカメラに親しみ、応召前は関西の写真作家集団に属するプロ級。戦地へは愛機スーパーイコンタを持参し、上海で新鋭機ローライコードU型を手に入れ、部隊の従軍写真帖作成担当者として陸軍報道部写真班の腕章を着用し、とった写真が千数百枚。そのうち精選六十数点を「戦線女人考」と題してまとめたのがこの本の巻頭にそっくりおさめられてあり、なお文中にも多数を配する。題を見てもわかるようにふつうの戦争写真ではない。
たとえば、その名も高い日本陸軍専用衛生サック「突撃一番」の実物写真、あるいは慰安所および兵站司令部「慰安所規定」の写真など。当時の報道カメラマンでこの種の記録をのこしてくれた人はたんとはいまい。
しかし何といってもこの人の最大の特徴は写真の題にもある「女人」だ。いつも女の人にかこまれているのである。生まれた時からそうなので、「私は父の経営する福岡産婆養成所の校舎の一部で産まれた。家の周りは色町で、何かにつけて女の多い所であった。初めての応召の時など、博多水茶屋券番の綺麗どころ一行が、紫の券番旗を翳して大挙、駅まで見送ってくれた」という人である。お父さんも婦人科医で、顧客の多い色街に居をかまえ、かねて学校の生徒はすべて助産婦志望の若い娘さんだから、まわりは女ばかりなのだ。
戦地へ行ってもそうで、まわりはみんな看護婦さん。慰安所では「週二回も何十人もの慰安婦の局部のみ覗かねばならぬ」。占領地には福岡色街の店が多数進出していて、子供のころからなじみの芸者さんたちにたいへんにもてる。
また非常なダンス好きで、軍務の余暇にはパリッと背広に着かえて、髪の毛だけは急に生えないから坊主頭で、せっせとホールに通う。最前線の武漢へ移動しても、「在った、有った。終に見つけたダンスホール。上海以来、夢の中に、寝ても覚めても忘れることの出来なかった、奇麗に磨かれたフロアと、スウィング・ミュージック」と、ちゃんと見つけてしまうのである。いいのかね、帝国軍人が。
そしてどこでもナンバーワンの美人ダンサーと仲良くなる。この本も各地のダンサーたちとの交遊を書いた部分が多い。もちろんみな写真つき。
この人の写真や記録は、日本軍が慰安所をやっていたことの動かせぬ証拠ばかりだから、写真が無断使用されたり、迷惑をこうむることも多かったらしい。娘さんが本を編んだのも、写真の著作権を主張し、あわせて「麻生軍医は朝鮮人慰安婦徴集の首唱者」との中傷に反駁する意図があるようだ。しかしそういう生々しいことを別にしても、一人の多芸多才の軍医の写真と文章による戦時記録として、貴重かつおもしろいものとわたしは思うのである。
プロフィール・あまこ くに
1935年生まれ。麻生徹男二女。
59年九州大学医学部卒。
60年九州大学大学院入学、
63年学位授与される。
67年医療法人親愛天神クリニック産婦人科勤務(2001年3月まで)
福岡県婦人問題懇活会委員、九州大学医療技術短期大学非常勤講師、財団法人福岡YMCA常議員・理事、日本産婦人科学会福岡地方部会評議員、福岡女学院大学非常勤講師などを歴任。
著書に『産婦人科医のカルテから』『慰安婦問題の問いかけているもの』(石風社)、
歌集『水仙川』(不職書院)、『慰安婦と医療の係わりについて』(梓書院)などがある。
■参考ブログ
従軍慰安婦問題が再燃してきましたが・・・(日本人と韓国人 その似て非なる事 さんブログより)
http://14819219.at.webry.info/201111/article_7.html
「慰安婦と医療の係わりについて」天児都、麻生徹男共著、梓書院、2010年2月発行、¥1,700(税込み)(史実を世界に発信する会 より)
http://hassin.org/01/data/2099
※その他の従軍慰安婦関連資料もぜひご覧くださいませ⇒資料室: 従軍慰安婦関連
「従軍慰安婦」 と軍医 麻生徹男 (真実を知りたい さんブログより)
http://hide20.blog.ocn.ne.jp/mokei/2012/03/post_eaa1.html
■まったけから
前回の更新から1か月たっての更新になります。
何のご挨拶もなく申し訳ありません。
自宅の玄関先に、押しピン数個落ちてたり、包丁(ナイフ)で切られた柿がいくつか扉の前におかれてたり、きわめつけは、息子の中型バイクにかけているカバーのロープがはさみのようなもので切られてたことがありまして・・・
これをきっかけに、以前からブログについてあまりいい顔をしてなかった主人が、「ブログのせいで、イヤガラセされてる可能性もあるんちゃうか?もう、ブログやめてくれる?」って・・。
そんなはっきり言われたら、無視して更新するわけにもいかず、年末年始、時間的に余裕がなかったのもあったりして、今まで更新できずにいました。
ご心配おかけし、申し訳ありませんでした。
正直なところ、ブログを離れているうち、「PC不調で、記事アップにも手間取るし、もうこのままやめちゃおうか」と思う気持ちも出てきましたが、やはり、いろんなことが気になり離れることができず、主人が一泊旅行に出ている間に、更新させていただいた次第です。
今後も更新を続けていきたいと私自身は思っています。主人との兼ね合いで更新ペースが左右されたとしても・・・・。何とか続けていくようにしますので、どうか引き続きよろしくお願いいたします。
【北京=川越一】21日付の中国各紙は、スペインの全国管区裁判所がチベット族虐殺に関与した容疑で江沢民元国家主席ら5人に逮捕状を出したニュースを黙殺した。20日の記者会見で「強烈な不満」を表明した中国外務省も、インターネットの公式サイトに逮捕状に関するやり取りを掲載しなかった。チベット族の主張に基づいて出された今回の逮捕状に関し、当局は国内に影響が広がらないよう苦慮しているとみられる。我が国が誇る捏 ( N ) 造報 ( H ) 道局 ( K ) にも報道しない自由とか捏造する自由があるようです。 現代国際化社会において情報は命綱であり、情報を分析し生活に活かすために存在する公共放送局が高給取ってこのザマでは金を払う価値はありません。
一方、外務省報道官は20日の会見で、今回の措置が中国・スペイン関係に悪影響を及ぼす可能性があると警告したが、中国の華僑向け通信社、中国新聞社によると、スペインの華字紙、欧華報はすでに昨年来、スペイン国内の反中感情が高まっている状況についてたびたび懸念を示していた。欧華報によると、2008年ごろから経済危機に陥ったスペインで失業者が600万人を一時突破する中、料理店や雑貨店などを営む中国系移民が増加。08年5月に約2万人だった中国系の登記者数は今年5月には倍増したという。
同紙は7月、「スペイン政財界は中国人の投資を呼び込もうとしてきたのに、スペイン社会は中国人が中国に帰ることを求めている」とし、不況に苦しむスペイン国民の間で中国系への風当たりが強まっていると指摘。また、4月にはスペインのテレビ局が中華料理店の「人肉」使用を暗示する番組を放送し、中国系移民らによる抗議デモに発展したという。
日本の台湾統治を扱ったNHKの番組で名誉を傷つけられたとして、出演者らが損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決で東京高裁は28日、「人間動物園」という言葉が台湾先住民族の女性に対する差別的表現だったと認め、100万円の支払いを命じた。一審東京地裁判決は原告側の全面敗訴だった。
判決によると、2009年4月5日放送のNHKスペシャル「シリーズJAPANデビュー」の第1回「アジアの“一等国”」は、1910年にロンドンで開かれた博覧会に日本が台湾の先住民族パイワン族の人々を連れて行ったことを取り上げた。博覧会には女性の父親も参加していた。
番組では当時、西欧諸国が植民地の人々の生活を見せ物にしたことを日本もまねた、として、集合写真を「人間動物園」の文字とともに放映。「連れて行かれたのはこの村の出身者たち」とのナレーションの後に原告の女性を紹介した。
須藤典明裁判長は「差別的な意味合いに配慮せずに番組中で何度も同じ言葉を使い、パイワン族が野蛮な植民地の人間で、動物と同じように展示された、と放送した。誇りを持って博覧会に出向いた人たちへの侮辱だ」と指摘。父親に対する女性の思いを踏みにじり、女性自身の社会的評価も低下させたと名誉毀損を認定した。
また、NHK側の事前説明が極めて不十分だったとして「表現の自由はあるが、取材対象の名誉に関わる内容を放送するときは同意がなければ免責されない」として賠償責任を認めた。〔共同〕
NHKの最高意思決定機関である経営委員会が、NHK執行部に対し、インターネットサービス充実のため、受信料制度の見直しを求めたところ、テレビがなくても全世帯から受信料を徴収する義務化を明記した回答文書を提出していたことが2日、分かった。
経営委員会は今年2月、NHKに文書で義務化を含めた受信料制度の見直しを要請した。番組を放送と同時にネットで見られるようになると、区別して受信料を徴収するのは現実的には困難だからだ。これに対し、松本正之会長(69)をトップに理事ら計12人で構成するNHK執行部は8月、「今後の方向性」として放送法を改正して「支払い義務化」を明記した回答文書を経営委に提出。文書は(1)すぐに義務化に踏み切る(2)現行制度のもとで支払率を上げ「世帯数の減少や物価上昇などによる努力の限界」に直面した後に義務化する−−の2通りの方法を示している。
全国の受信料支払率は現在、73%台にとどまり、特に都市部で低く「負担が公平でない」と指摘されている。しかし、NHK執行部には「9割以上の世帯から徴収できる制度的な保証がないと義務化は無理」として、未契約世帯に対する訴訟などで支払率アップを期す声が根強い。このため、9月に改めて経営委に提出した文書は「義務化」の末尾に疑問符を付け加えるなど、経営委にとって後退した内容となった。
義務化は、第1次安倍晋三政権で2006年に総務相に就任した現官房長官の菅義偉(すがよしひで)氏が強く求めた。当時は、相次ぐ職員の不祥事による受信料不払いが急増しており、菅氏は「義務化で2割は値下げが可能」と国会で述べたが、NHKの橋本元一会長が難色を示し、結果的に見送られている。
文書について、NHK広報部は「内容は非公開としており、回答は差し控える」とコメントしている。【土屋渓、有田浩子】
◇受信料
放送法に基づき放送を受信する設備があり、NHKと受信契約を結んだ世帯や事業所が負担する。携帯電話で見られるワンセグ放送も対象とされる。今年度事業収入の96%を占める一方、4635万世帯の昨年度の支払率は73・4%。都道府県別では、秋田の95・7%をトップに、東京、大阪は60%前後にとどまる。要因には若者のテレビ離れなどが指摘される。NHKは法的措置を強化しており、未契約世帯を訴えた裁判の控訴審判決で、東京高裁は10月30日、未契約世帯でもテレビがあれば通知後2週間で契約が自動的に成立する、との判断を示した。
◇服部孝章・立教大教授(メディア法)の話
受信料制度については、国会も総務省もNHKもこれまでふたをして、あいまいなままほったらかしにしてきた。テレビからインターネットに移行する流れは止められない。受信料を払っていない人は多く、不公平感はあるが、義務化だけを急げば世論の反発を招きかねない。公共放送のあり方はもちろんのこと、NHKにとどまらない放送界全体の問題として、国会を中心に議論すべきだ。
炎天下、路上に倒れた掃除員に傘を差し伸べる少女。残念ながら広告用に作られた演技だった(新快報スクリーンショット)
【大紀元日本12月3日】中国の報道機関はしばしば嘘のニュースを報じる。原因はさまざまで、単にうわさ話が「事実」として広まったものや、報道機関の調査不足による誤報、また共産党による印象操作や社会的重要事件から人々の関心をそらすために「事実」と称した嘘を流すことなどがある。2013年に報じられた中で、少なくとも下記の6つは嘘であることが明らかになっている。
嘘ニュース1 「深センの最も美しい女性」
多くの中国国内メディアは3月26日、深センの街中の路上に座る年老いたホームレスに、しゃがんで食事を食べさせている若い女性の「善行」について報じた。彼女について「深センでもっとも美しい女性」とメディアは称した。
路上生活者に食事を与える若い女性、ただのパフォーマンスだった(スクリーンショット)
しかし翌日、この行為はメディアが「市民の社会道徳性」を飾るために取り上げた嘘だったことが明らかになる。目撃者が国営新華社通信に伝えた話では、女性は一緒にいた彼氏が撮影するカメラの前で何らかのポーズをとるだけの行為だったという。彼氏が写真を撮り終えた後、2人は老人を気にかけず立ち去っていった。
嘘ニュース2 温州の路上生活者 700万元の保証金得る
上海の大江ネットが3月末に報じたニュース。浙江省温州の貧しい家庭に育った朱景さんは故郷を出て、多くの都市を回る季節労働者になった。厳しい生活条件の中で9年間も全国を流浪するうち、深刻な肺結核を患った。治療のために今年3月27日、郷里に戻った。兄弟の帰還に喜ぶ故郷の家族。さらに実兄が朱景さんに驚くべきことを伝えた。家族は「村の土地開発のため700万元(約1億1200万円)の保証金を得た」のだという。
しかし残念なことにこれも嘘であった。新華社の現代金報の記者が現地取材と調査をした結果、一家が巨額の保証金を手にしたという事実はなく「深刻に真実と異なる内容」と報じた。
嘘ニュース3 外国人が100万元かけて5トン分の爆竹を上げた
2013年の旧正月の際、「外国人が100万元かけて5トン分の爆竹を上げた」という映像がインターネットで話題になり、新華社長沙など全国で報じられた。しかし肥大化した嘘であることが明らかになる。ビデオは2012年の夏に湖南省瀏陽当局がインターネットにアップしたもので、内容は、デンマークの花火会社が瀏陽で小型花火を打つというものだった。その規模は100万元でも5トン分でもない。
「外国人が100万元かけて5トン分の爆竹を上げた」は嘘のニュースだったと報じている(スクリーンショット)
嘘ニュース4 医療費革命
2月19日、中国中央電視台(CCTV)は医療費に関する制度の大幅な変更について報じた。それによると衛生部(厚生省にあたる)は「治療費の後払い」を全国で適応するという。中国の病院では患者は医療費を前もって支払わなければならない。新制度適応後は日本の健康保険制度同様、患者は医療処置のあとに健康保険分を差し引いた残金を病院に支払うのだという。新制度は20以上の行政地区ですでに実行されている、とCCTVは報じた。
医療費改革を伝える当時のニュース(全球快報スクリーンショット)
しかし午後になり、衛生部はこの新制度の事実を否定した。多くの市民は「ぬか喜びだった」とのため息を漏らしたが、にもかかわらずインターネットでは新制度の適応は実現すると一部で信じており「変更を期待している」との声がしばらく続いたという。
嘘ニュース5 ネットラブ 相手は近親者
黒竜江晨報が報じた誤報。黒竜江省牡丹江市穆棱で伝えられた、ある「恥ずかしいニュース」だ。57歳の男性、王さんはインターネットを通じてある若い女性と友人になった。懇意になった2人はホテルで会うことになるが、なんと女性は王さんの息子の妻だったという。
しかし後に同紙は、記事は事実と異なるとして撤回し、謝罪文を掲載した。現地警察当局の調査の結果、ニュースは虚偽であり、穆棱テレビ記者の作った捏造であることが明らかになった。
嘘ニュース6 炎天下、倒れた掃除員に傘を差し伸べる少女
今日、中国では路上に倒れこむ人に対して救いの手を差し伸べる人はとても少ない。そんな中、炎天下が続く7月下旬に小さな少女が路上に倒れこんだ女性の清掃員に傘を差し伸べる姿が写真に納められた。写真は広東省の人気紙、新快報が8月1日「ありがとう、少女!」と題して大きく報じた。少女の優しさに多くの読者が胸を打った。 記事によると、この女性の清掃員は広州市天河区の路上で激しい暑さゆえか熱中症で倒れこんでいた。バス停近くの通りには多くの人が通ったが助ける人はいなかった。その後、通りかかった少女が日を避けるため傘を差し出し、一緒にいた母親に「おばさんを助けて!」と叫んだ。少女の行動を見て、2人の通行人がようやく清掃員を抱き起こしたという。
しかし後日、この少女の話は傘の広告用に作られた作話であると人民日報が報じた。この母子は広告の被写体モデルで、カメラマンら関係者は撮影のために1時間半かけ、横たわる掃除員の角度を3回ほど変えたという。母子には150万元が支払われていた。
中国国内で報じられるニュースは嘘か真実か見極めるのが難しい。世論はニュースにより操作するという特性を知る中国宣伝部は、しばしばニュースで嘘の「善人」を作り上げて共産党が築いた社会の安定性をアピールし、一方で国内外の「悪人」を作り上げて軍事力や闘争の必要性と党の支持を訴える。
(翻訳編集・佐渡 道世) (13/12/03 08:50)
ジャーナリスト 大高未貴
ではなぜ、打ち切りにされたのか。
当時、教科書検定をめぐって文科省の方針に熾烈な反対運動が行われ、琉球新報と沖縄タイムスはそれを煽りたてる働きをしていたからだ。つまり、上原氏の連載では真実が明かされ、集団自決に軍命令はなかったことが貴重な証言や豊富な資料を以て書かれていたからである。
沖縄の全体主義はこのように情報統制を行っているが、今回の福岡高裁那覇支所の判決は、そんな特異な言論空間に風穴を開ける画期的なものだった。8月12日までに琉球新報が最高裁に上告しないことが明らかになり、上原氏の勝訴が確定したのだ。
しかし、上告しないことで裁判自体を闇に葬ろうとした琉球新報の意向に沿って、沖縄タイムスだけでなく、他のメディアもこの勝訴確定を黙殺したままだ。
こんなに恐ろしい情報統制の下に私たちがいるという現実を、沖縄が日本を象徴する立ち位置から明らかにしてくれた。そういう意味でも、九条改正の作業は日本全土と支那や朝鮮半島から「悪の巨魁(きょかい)」が結集する沖縄を主体とすることで、初めて本格的にスタートできるのではないかと思っている。
結局、この日は韓国の国会議員12名が竹島に不法上陸したことも、NW9は1秒も報じなかった。さらに、終戦の日には安倍首相の戦没者追悼式の式辞すら報じていない。
(WiLL10月号、西村幸祐さんの「NHKが黙殺した集団自決判決」より抜粋)
WiLL10月号 沖縄集団自決裁判に画期的判決
「琉球新報」「沖縄タイムス」の大罪
フリージャーナリスト・鴨野守
詩人・美術評論家・「うらそえ文藝」編集長 星雅彦
ジャーナリスト(狼魔人日記管理人)・江崎孝
ドキュメンタリー作家・上原正稔
■「なかった」ことにするな
鴨野:上原正稔さんは琉球新報の夕刊で、沖縄戦に関する連載「パンドラの箱を開ける時」をお書きになっていましたが、最終回の慶良間諸島の集団自決の真相に迫る箇所について、琉球新報から「これまでの原稿の焼き直し」と批判されて書き直しを求められた。上原さんはそれを拒否して08年8月に連載を打ち切り、最終回も掲載されなかった。
上原さんはこの件について裁判を起こし、7月29日、5年越しに福岡高裁那覇支部は原告の請求を棄却した一審判決(那覇地裁)を覆し、琉球新報社の契約違反を認め、105万4千円の支払いを命じました。
江崎:さらに上告期限である8月12日までに、琉球新報の上告申請がなされていないことが判明し、これによって「琉球新報の敗訴」という福岡高裁判決が確定しました。
上原:私は絶対に勝てると思ったので、HPでも判決の日をXデーとして、「Xdayのカウントダウン・・・あと×日」と書いていました。
これで、軍命令を出したと言われてきた梅澤裕さんと赤松嘉次さんの汚名を晴らすことができた。梅澤さんと赤松さんの弟の秀一さんに電話で報告すると、「(名誉回復は)もう諦めかけていた。涙が出るほど嬉しい」と喜んでくれました。
判決の日には記者会見をすることを各新聞社などに伝えてありました。ところが、会見に来た大手の新聞社は共同通信だけ。しかも、共同通信は報道しなかった。朝日も読売も毎日も産経も報道しない。結局、琉球新報と沖縄タイムスがベタ記事で、あとは世界日報が大きく報じてくれました。世界日報はこの裁判が始まった時からずっと追っかけてくれて、ちゃんと報道してくれました。産経新聞は8月11日に石川水穂さんがコラムで詳しく書いてくれましたが、しかしタイミングが外れているのでニュースとしてはとても弱い。
この判決は沖縄の歴史をひっくり返す、とても重要な判決です。集団自決の真実を伝えようとするのを琉球新報が潰そうとし、それに戦って勝ったわけですから。
つまりこれは右も左も関係なく、メディア全体が敵だったわけです。僕はわりと楽観的な人間なんだけど、勝訴して初めて自分がどれだけ巨大な存在と戦っていたのかを実感して、この国のメディアはどうなっているのかと疑問に思いました。
江崎:上原さんがおっしゃったように、この判決をほとんどのメディアは報道していません。判決が出た時は琉球新報も沖縄タイムスもベタ記事とはいえ報道していたのに、上告せずに判決が確定したことは一切、報道していません。それ以外にも私が知る限り、新聞、テレビ、ラジオ、どのメディアも報道しておらず、私のブログ「狼魔人日記」で知った人が多いくらいです。
つまりこれは、「報道しない自由」によってフェードアウトする魂胆です。ちょうどオスプレイ、それから米軍ヘリ墜落事故があり、これを新聞は朝から晩まで報道し、裁判については触れないでいる。そしてほとんどの沖縄県民、そして日本国民に琉球新報の敗訴を知らせず、忘却するのを待つつもりなのです。
しかし、これは非常に重要な裁判なのです。単に掲載拒否、契約違反といった問題ではありません。琉球新報が全面削除を要求した上原さんの原稿は、集団自決の核心である「(集団自決の)軍命はなかった」という部分だけで、この行為がおかしいのだと鉄槌が下された。
つまりこれは言論の自由、そして日本の歴史にもかかわる重大な判決なのです。それを一切報道しないのは、不思議でしょうがない。
■理不尽な原稿ボツ
上原:詳しい経緯を話しますと、僕は2006年初頭に、琉球新報から「連載をやってくれ」と頼まれました。その年の4月から年末まで「戦争を生き残った者の記録」を連載し、その次に2007年5月に、裁判となった「パンドラの箱を開ける時」が始まった。
その最初の回で、伊江島(いえじま)戦について書きました。そしていよいよ集団自決について書くことになり、「慶良間(けらま)で何が起きたのか」の資料と原稿を連載担当者の前泊博盛(次長・編集、論説委員)に出しました。そうしたら編集部から呼び出されて、琉球新報の6階の空き部屋で枝川健治(文化部長)、上間了(編成、整理本部長)といま編集局長をやっている玻名城泰山が入ってきた。前泊はぼくの右隣に座り、3人は向こうに座って「慶良間で何が起こったのか」を発表しないと言うわけですよ。
説明を求めたら、「これは編集方針に反しているから」とか「君は前に同じことを発表しているじゃないか」という。これを掲載しないのなら連載をストップすると言うと「かまわない」というので、余計に頭に来ました。
それで連載がストップしたんですが、たくさんの人たちから「連載を再開しろ」という抗議の電話が殺到した。あまりに多いので2007年10月に連載は再開されたんですが、結局、慶良間で何が起きたのかを飛ばして違うものを書きました。
08年まで続き、170回を迎えた頃、「もうそろそろ終わってくれないか」と言われたので、さすがにそれは承諾した。ただし、最終回の181回は集団自決の真相に絞り、赤松さんと梅澤さんのことを書いて、2人は決して軍命を出したことはない、赤松さんと梅澤さんに謝罪しなければならない、と書きました。ところが、社長を加えた編集会議が開かれ、書き換えろ、と言われた。僕は「これは絶対に書き換えません」と言ったのですが、結局、最終回は掲載されなかったんです。二度にわたる前代未聞の暴挙に、僕は怒って裁判を起こした。そしてこのたび、僕の勝訴となったわけです。
星:上原さんと同じように、私も書いたものが理不尽にボツにされた経験がありました。
私は長い間、集団自決問題について沈黙を守ってきていました。しかしある時、琉球新報から原稿依頼があり、それまでの集団自決についての報道に腹を据えかねて考えていることや思っていることを書いたら、すぐボツにされました。
それだけではなく、ずっと担当していた美術月評から私は予告なしに外された。40年間、書いてきた月評を「もう終わりです」の一言だけで終止符を打たれてしまった。私が体調命令を否定して軍命はなかったと固執したため、封殺されたわけです。無礼千万な幕切れだった。
そういう悔しさを持っていたんだけど、今回の判決で一歩前進したような気がしますね。これだけで急には明るくはならにだろうけど、一筋の光が届いたような気がします。
■「沖縄の怒り」へ印象操作
鴨野:集団自決については戦争当時、座間味、渡嘉敷の戦隊長であった梅澤裕さんと赤松嘉次さんの弟さんが、2005年に「私たちは集団自決の軍命を下していない」として、大江健三郎と岩波書店を訴えました。社会的にもクローズアップされた問題です。
判決は控訴棄却ということになりましたが、しかしその間、様々な新証言も出てきましたし、裁判所の判決文には「軍が命令を出したということに関する直接的な証拠はない」という文言が盛り込まれており、そういった意味では、この問題について非常に前進した裁判でした。
いまの沖縄の状況、教科書問題や米軍基地移転問題などの根本にあるのは、沖縄の本土と日本政府に対する怒り、アメリカに対する怒りのマグマです。この怒りがいろいろな形となり、政治や社会問題に火を付けているわけです。
そこで、沖縄に長く住んでおられて、言論活動にかかわってこられた御三方とこれから先、沖縄戦をどのようにとらえ、またどのように伝えていったらいいのかについて、話し合いたいと思います。
星:集団自決について言うと、第一に「軍命があったから集団自決が起きた」と、左翼の人たちは怒りのマグマとして発言し、琉球新報や沖縄タイムスがそのことを次々と報道して怒りを募らせている。
私は名嘉正八郎氏とともに、40数年前から沖縄本島を中心に県史編纂のために取材して歩いてきた。慶良間にも3回行っています。そういった取材をした結果、軍命があったとはとても考えられなかった。
鴨野:私は30年前、世界日報の記者として沖縄に1か月あまり滞在し、沖縄戦に直接参加された方、生き残られた方に取材をしました。つらい話も聞いたけれど、全体のトーンとしては「本当に県民が一致団結して日本を守るために、郷土を守るために戦ったんだ。戦って負けたけれども悔いはない」という、潔さみたいなものがあったことが印象に残っています。
ただ、遺族会の金城和信先生が元気なうちはそういった証言はきちんと残っていたのですが、終戦から50年、60年経っていくなかで、だんだんとそのような手記は排除されて、「沖縄戦はつらかった」「壕から追い出された」といった暗い部分が協調されるようになっていきました。
江崎さんは、小さい時に学校で教えられた沖縄戦の歴史と、その後、ご自分でいろいろな著作などを読んで知った歴史との違いを感じられたそうですね。
■沖縄二大紙の情報偏向
江崎:小学校高学年か中学校ぐらいの年齢の時に、『鉄の暴風』を読みました。もちろん、子供の頃ですからあまり理解はできませんでしたが、印象としては「日本というのは沖縄にひどいことをしたんだな。けしからんな」と思いましたね。
しかし、20歳過ぎくらいになって読み返した時、「あれ、おかしいんじゃないか」という違和感、疑念が生まれてきた。そのあとに読んだのが、曽野綾子さんの『ある神話の背景』(現在『沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実ー日本軍の住民自決命令はなかった!』として小社より刊行)です。これによって、疑念が確信に変わり、自分で本気で調べてみようと思いました。自分なりにいろいろな文献を調べていくと、どうしても沖縄の情報は沖縄にある二つの新聞、沖縄タイムス、琉球新報に偏っていることがわかった。この2つを無視しては語れない。
(※参考:[沖縄戦]『鉄の暴風』に関する面白い意見)
先ほど、沖縄の怒りのマグマという話があったけど、その怒りもはたして沖縄県民の本当の気持ちなのか。すべて沖縄タイムス、琉球新報の色眼鏡を通して本土に伝わっています。現在の普天間基地移設問題などもそうです。沖縄に住み、新聞を丹念に読み、様々なメディアを人一倍調べた結果言えることは、全てを一緒くたにして「沖縄の声」とか「沖縄の怒り」と言ってしまうのは、明らかに間違いだということです。
もちろん、怒りがないとは言いません。しかし、新聞を通すと非常に大きく拡大されてしまう。拡大された「声」は、実はタイムスと新報の「声」なのです。もっと言えば、戦後顕著になってきた沖教祖、自治労、教育界、大学の教授・学者たちの声です。沖縄では、保守的な教授はちょっとした発言でたちまち排除されてしまいます。すべて左翼で固められている。
ですから、沖縄戦を調べるには、タイムス、新報という二大新聞の動きを調べていかないと、間違った印象になるんじゃないかと思います。
鴨野:星さんは、曽野先生よりもっと前から取材をしておられました。
星:取材をしてショックだったのは、集団自決をしようとしたけれど生き残ってしまった人が、死んでいる人を見て「うらやましい」と呟いたことです。
ということは、死んだ人たちは必ずしも強制ではなくて、自ら国のために死ぬんだと自主的に死を選んだ人たちもいた。つまり、軍命だと主張するのは、自分に都合よくまやかしくさい感じがする。曽野綾子さんにも当時そのことを打ち明けたし、彼女もそれで何か確信を握ったようでした。
江崎:なぜ、星先生は30年近く、集団自決について沈黙なさっていたのか疑問でしたが、あれは話しにくい状況だったわけですね。
■宮城晴美の衝撃告白
星:以前から革新的な思想家たち、たとえば川満信一(参考:琉球独立運動)、新川明、岡本恵徳らとの付き合いもあったので、政治的な発言は極力避けてきた。ただ、裁判が起きた時に、「この問題はこんなところにまで来てしまったのか。もう黙ってはいられない」という気持ちになった。
(※参考:新川明と白旗の少女 捏造された一フィート運動 / 水平軸の発想 ――沖縄の「共同体意識」について:岡本恵徳)
江崎:しかし、星先生の発言にはタイムスも新報も一言も触れません。肯定も反論もしない、無視です。
星:触れないのは、私の発言を歓迎しなかったからでしょう。
鴨野:上原さんはこの集団自決問題についてどう思っていたんですか?
上原:僕が沖縄戦の研究をはじめたのは1983年頃です。その頃、1フィート運動をはじめた(ひとり1フィート[約100円分]のカンパで、アメリカの国立公文書館等に保存されている沖縄戦の記録フィルムをすべて買い取り、戦争を知らない世代に沖縄戦の実相を伝える運動)。
(※参考:左翼に乗っ取られた1フィート運動)
当時、新聞に登場していた仲宗根政善、大田昌秀などに協力をお願いして、4か月の間に1千万円も集まった。運動は大成功でした。
ところが、その間に悪い連中(共産党系や沖教祖)がこの運動の乗っ取り工作をはじめて大変でした。僕はその時、「人間ってこんなに汚いものか」とはじめて知り、それから反戦平和を言っている奴らを一切、信用しなくなりました。
集団自決の問題について、曽野綾子さんの『ある神話の背景』を呼んで知りました。その時はビックリしたけれど、それだけで詳しいことを調べることはしませんでした。
ところが1995年6月23、24、25日に、沖縄タイムスに宮城晴美が「母の遺言 切り取られた自決命令」を発表した。そのなかで宮城晴美は、母親の宮城初枝がこれまで軍命があったという自分の証言は実は嘘だったと書いている。これには衝撃を受けました。
(※参考:「母の遺したもの」宮城初江氏の証言)
鴨野:ご存じのように、宮城初枝さんは「家の光」の懸賞論文で自分の体験、戦争体験を書いて、そこで軍命を書き、入賞した人です。その人が村からも「軍命があったことにしてくれ、そうしないと村にお金が落ちないんだ」と言われてそう書いた、と。
上原:晴美はこう述べています。
「母初枝はその著書で梅澤隊長が集団自決を命令した、と書き梅澤隊長を社会的に葬ってしまったが、実は母は島の長老らの圧力に屈し、国の役人の前で梅澤隊長の自決命令があった、と証言した。
その裏には、援護法(軍人軍属等の公務上の負傷・疾病・死亡に関する国家補償の法律)があり、援護法は軍人、軍属に適用されるもので、一般住民には適用されないものだ。自決で亡くなった人は戦闘協力者として年金を受け取るべきだ、との動きがあった」
いま問題になっている援護法について、最初に発表したのは宮城晴美です。これが集団自決の謎を解く鍵になり、ぼくの「沖縄戦ショウダウン」に続くわけです、。
1996年6月に、僕は渡嘉敷の集団自決を目撃したグレン・シアレス伍長の手記を「沖縄戦ショウダウン」として発表し、そのなかで沖縄タイムスの「鉄の暴風」を批判し、赤松さんと梅澤さんをスケープゴートにしている沖縄のメディアを徹底的に非難したのです。
星:1972年頃、私は宮城初枝さんに会って取材しました。私が「軍命はなかったんじゃないですか」と質問すると、うなずいた。「もっとはっきり言ってください」と言うと、「はっきりは言えないんです」と、心苦しそうな表情だった。
(※参考:母の遺したものへの裏切り〜 座間味島)
■最高裁判決の意味
江崎:キーワードになるのは、援護法です。この実態を解明しないと、集団自決の真相はわからない。
金武町(きんちょう:当時は金武村)で援護法を申請するのに、村長が誰の命令だったかを書く項目がある。村としては「なるべく貰えるものは貰いなさい」という指導をしているので、関係のない人でも「軍命があった」と書く。それは架空の人物でもよくて、たとえば「田中軍曹」と存在しない人の名前を書けばOKだった。このことを証言したのは、金武町の教育委員会の奥間俊夫さんです。
厚生省も琉球政府も各市町村の援護課の窓口も、「何とかしてやろう」と思っての共同正犯だった。ところが、架空の人物ではなく、実際の人物の名前を書いてしまったために、現在の集団自決問題が起きることになってしまったのです。
星:「集団自決に軍命があったか、なかったか」という問いかけは、私に言わせるともう終わった問題でした。平成23年4月21日の最高裁の判決を受け、大江健三郎は勝った勝ったと喜んでいたけど、最高裁は、集団自決については「真実性の証明があるとはいえない」と結論を出した。ただし、大江健三郎と岩波書店を免責した理由は、「表現の自由の保護」を梅澤さんと赤松さんの人格権に優先させた結果だった。逆に言えば、「軍命はなかった」と受け取れるわけです。
星:援護法のそういうカラクリは、数年遅れたからやむを得なかった部分のあるけれど、援護金を出したのは、ある意味で日本政府の善意からと受け取るべきです。
江崎:援護法の対象はあくまで軍人と軍属で、本来、非戦闘員である一般住民は対象外です。本土でも東南アジアの島々や中国大陸でも、多くの一般住民が犠牲になりましたが、沖縄以外は援護法の給付の対象にはなっていません。
沖縄戦は壮絶な戦闘だったということもあり、特別に準軍属という身分を与えて援護法で救済することとなった。しかし、その準軍属という身分には積極的な戦闘参加が条件だった。この「積極的な戦闘参加」という条件と軍命にカラクリがある。
星:しかし、安易に援護金を出し過ぎたんじゃないかと思う。また、実例を挙げることもできるが、左翼の発表のなかにはあまりにも捏造が多すぎる。
■暴かれた援護法のカラクリ
江崎:準軍属の身分を与えるため、積極的な戦闘参加という条件と軍命の捏造とのカラクリは、出来上がるまで数年の期間がありました。
まず、沖縄の援護課から遺族の申請を厚生省に出す。しかし、厚生省の担当部局から「これでは戦闘協力が消極的だ」と審査課から突っ返される。その時、「当時の戦闘状況から、××のような項目に当てはまることがあったのではないか、あったらそのように現認証明を添えて申請し直してくれ」と返してくる。
つまり、積極的な戦闘協力と認められるというのは、「軍の命令によって云々」と申請することだったのです。政府主導でもって、ありもしなかった軍命をでっちあげた。
鴨野:援護法の問題の実態が暴露されにくいのは、お金をもらっているからでしょう。自分の父親は軍命で自殺したわけではないが、軍命を言わないと給付がもらえなかった。これを暴露してなお、お金をもらうことはできない。だから、当事者はわかっていても沈黙しているという面があると思います。
江崎:その心理はよく理解できます。しかし、黙して語らないなら許せますが、たとえば米軍上陸の知らせを聞いて、兄と一緒になって家族のみならず村人まで手にかけ、戦後、牧師となった金城重明みたいに赤松隊長の名前を挙げて責任を転嫁するのは許せない。貧乏ななかで嘘をついてお金をもらう。みんなやっているし、共同工作もした。やむを得ないことだったとしたら、手を合わせながら過ごせばいい。ところが、「アイツ(軍)のせいで自決した」と責任を転嫁し、悪者扱いする。そこが問題なのです。
(※参考:陶酔が集団自決をもたらした、金城重明氏の証言)
上原:渡嘉敷村の古波蔵惟好村長が、「最初に私が手本を見せる」と言って、宮城に三顧の礼、天皇陛下万歳をやって手榴弾のピンを抜いた。しかし不発だった。次に真喜屋元校長が、「じゃあ、私が見せる」と言って爆発した。それでみんな「私も殺してください」と続いていったわけです。
このことを一番詳しく知っているのは金城武徳さんです。金城武徳さんは、その現場には金城重明はいなかったと言っている。金城重明は嘘ばっかり並べていて、彼の証言を集めるとみんな違っている。誰かが書いたものを都合のいいように解釈するからです。いまはわずか5、6歳の子供の証言もあるといっている。
集団自決問題のなかで、もっとも見苦しくて恥ずかしい人間でしょう。
■沖縄二大紙のデマと捏造
江崎:集団自決問題は、沖縄の新聞メディアが必死になって、時にデマを使って自分たちの声を大きくしています。上原さんの件もそうですし、他にも1970年に赤松元大尉が沖縄に来られた時に、新聞は、沖縄県民が怒りの拳を振り上げて「出ていけ」と言ったように書いた。しかし調べてみると、あそこにいたのは全て市役所の職労なんです。
鴨野:当時、渡嘉敷村村長だった玉井喜八さんは遺族会誌でこの事件に触れ、「文献では自決命令云々と書かれているが、生き残った人々は各自異なった体験を語っている」とし、軍命を否定している。そして、「『赤松帰れ』と叫んだ者は皆、村民以外の民主団体だ」とも断じています。
(※参考:渡嘉敷島玉井村長の手記、沖縄タイムスが報じない)
極めつきは、昭和53年の33回忌に赤松さんの奥さんを呼んで、遺族会と元隊員と合同で慰霊祭を行った。その際、奥さんと住民が親しく交流していたことが、赤松さんに対する何よりの慰めだったと語っています。もし赤松さんが自決命令を出し、自分の家族を殺していたとしたら、住民が歓迎するわけがない。
しかし、『鉄の暴風』で自決命令が登場し、生き残った人も援護法の兼ね合いで赤松や座間味の戦隊長だった梅澤が悪いと言う。そうやって重なっていき、社会に定着していった。タイムス、新報としては、その捏造を守らないといけないから、異を唱える人を排除する。星さんと上原さんはそれを身をもって体験された。
星:このような新聞社、マスコミにどう対応すべきですか。言論弾圧や封殺に対し、私たちはどう戦えばいいんでしょうね。
江崎:上原さんが行った訴訟は、一つの突破口でしょう。
上原:僕が裁判に負ける要素は全くなかった。しかし重要なのは、僕が勝つことではないのです。赤松さんと梅澤さんの汚名を晴らすことができるかどうかが鍵なんです。
江崎:繰り返しになりますが、新聞は自治労、沖教祖、大学の左翼の声を拡大させているだけなのです。沖縄二紙がパッと騒いで、他のメディアもワーッとついていき、それが沖縄の声だと勘違いしてしまう。
鴨野:世論をコントロールしている人は一部の人。しかし、それらの新聞は、両方とも20万近い読者を抱えているのだから、厄介です。
星さんや上原さんは沖縄に住みながらの言論活動です。当然、沖縄に住む友人がたくさんいるでしょう。そのお付き合いしている人や会社に対して、「おかしい」と疑義を呈しているわけです。沖縄という小さなコミュニティーのなかで孤立するかもしれないし、仕事がなくなうrかもしれない。そういう意味で、沖縄の体制派の言論人からみたらとんでもないインパクトがあると思います。
江崎:しかもこれまでタイムス、新報とつきあっていたわけですからね。無難に原稿を書き続けていれば、社会的地位も安泰だし、収入もそれなりにある、友人関係も崩れずにやっていけるのに、あえて全部叩きつけて、喧嘩を売って意見も発表する場所もないような状況になる。その勇気はすごい。
■八重山日報の孤軍奮闘
上原:これまでに協力してくれたのは、ほんのわずかの人たちです。世界日報と八重山日報、そして江崎さんのブログ「狼魔人日記」くらいです。
江崎:よく「新聞に書いているものを真っ向から否定して大丈夫か」「営業妨害で訴えられるんじゃないか」と言われますが、何も空想で書いているわけではない。全てネタをキチンと持って書いていますから平気です。最近では、新聞記者の実名も挙げて書いています。
最初は罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせられましたよ。お前はニセ沖縄人だ、沖縄人がそんなことを言うはずがない・・・しかし段々減ってきて、いまではたまにあるくらい。ブログは日に大体1万人、テーマを絞った場合は2万人もアクセスがある。それだけの読者がいるわけです。
星:沖縄戦で、軍民あわせて18万の犠牲者が出たと言われています。住民と日本軍の数を比べると、住民のほうが若干多い、とも言われています。それだけ夥(おびただ)しい軍民が沖縄戦で犠牲になった。
その死んでいった人たちを、まるで軍の強制だけによって死んでいった、と先入観を持った解釈をしてしまうのでは、あまりにも沖縄戦の真相から乖離しています。
集団自決のなかで、自ら死んだことを美しい物語にしようなどとは毛頭思っていない。どれが虚構で捏造なのか、頭を冷やして考えてみるとよい。彼らの多くが、当時の殉国の思想で自決した人たちだと理解している。我々がいま平和でいられるのは、戦史した軍民のおかげだと考えることもできる。これから意図的に歴史を捏造するのではなく、イデオロギーに偏向せずにきちんとした歴史(認識)をしなければなりません。
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沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会
http://blog.zaq.ne.jp/osjes/
「軍命令はなかった」−『うらそえ文藝』星雅彦氏 上原 正稔氏
http://blog.zaq.ne.jp/osjes/article/75/
鴨野氏の裁判への多大な貢献に感謝http://blog.zaq.ne.jp/osjes/article/41/
大田昌秀 『集団自決写真』の嘘(狼魔人日記)
http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/74e0dbd42fb16e46b5501e173df8c95f
沖縄タイムスは腹を切って詫びよ!星雅彦氏と上原正稔氏の対談(狼魔人日記)
http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/67263ffd966721fdb0f6de46dccfb9ae
星雅彦氏の疑義!『鉄の暴風』と地裁判決へ(狼魔人日記)
http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/d0dd592e7047950f93ce2b5e6c5fe96b
パンドラの箱掲載拒否訴訟、琉球新報の言論封殺(狼魔人日記)
http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/af94ca0aae346c9c78fe864d96e6d484
大江健三郎と大田昌秀の大嘘!(狼魔人日記)
http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/700ae20bc474991b427eca1f98ce10b8
集団自決の軍命はなかった・今まであったと考えていた星雅彦氏と上原正稔氏が沖縄集団自決の真実を会見・地元文芸誌が特集・沖縄タイムスと琉球新報は自主廃業しろ・教科書を改めよ!凄絶極めたサイパン・沖縄戦(正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現)
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/40904986.html
沖縄公文書に見る渡嘉敷島集団自決の実相(阿比留瑠比さんのブログ)
http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/426052/
上原正稔から琉球新報へ(上原正稔日記)
http://blog.goo.ne.jp/uehara-shonen/s/%BD%B8%C3%C4%BC%AB%B7%E8
慶良間で何が起きたのか? ―人間の尊厳を懸けた戦い― 上原 正稔 投稿 · 2012年5月(八重山日報)
http://www.yaeyama-nippo.com/2012/05/01/慶良間で何が起きたのか?-人間の尊厳を懸けた戦い-上原-正稔/
■さいごに・・・大阪及び、その近郊にお住いの方に、お知らせです。
以下、狼魔人日記より
「パンドラの箱訴訟」勝訴報告会
このほど、沖縄の琉球新報社を相手どって争われていた「パンドラの箱掲載拒否訴訟」は、一審判決を完全に覆す逆転勝訴となりました。 この裁判の原告と上原正稔氏と関係者を招いて下記の如く報告会を行いますので、1人でも多くの皆様の参加を頂き、ご協力をお願いいたします。
この裁判は梅澤さん、赤松さんの名誉回復を目的として、沖縄冤罪訴訟からの継続した戦いがなされた結果、沖縄言論界を牛耳っていた一角が瓦解し、歴史を歪めていた軍命を覆す援護法のカラクリが解明された歴史的な逆転劇となりました。2年半に及ぶ戦いの中の特筆すべきエピソードも沢山報告されます。大阪での新たな運動にも繋がるものと思います。皆様のお越しを心からお待ち申しあげております。
■日時:11月24日(日) 午後1時会場、1時半開演
■会場:堂島ビルヂング1階 B(研修室)
大阪市北区西天満2-6-8
電話:06−6318−168 地図
?地下鉄堂島線・京阪本線
・・・「淀屋橋駅」 徒歩5分
?JR東西線
・・・「北新地駅」 徒歩5分
■登壇予定者:
徳永信一弁護士、
上原正稔原告人
江崎 孝 (ブログ「狼魔人日記」管理人)
■参加費:2000円
■懇親会:4000円
■主催:「パンドラの箱訴訟」戦傷報告実行委員会
※お問い合わせ
090−8579−0056 吉田
FAX:072−695−5919
※ご参加ご希望の方は上記にご一報下さい。
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土日を利用して、カンボジアとラオスに行ってきます。 これで、アセアン10か国を全て訪問。日・アセアン友好協力40周年に相応しい、アセアン諸国歴訪の締めくくりとなります。援助だけではなく、医療分野や青少年交流など、厚みのある協力関係を構築していきます。(安倍晋三首相のFacebookより)https://www.facebook.com/abeshinzo
約二十年前、内戦で混乱するカンボジアに、日本として初めて、国連平和維持活動(PKO)に自衛隊と文民警察官を派遣しました。その歴史的な一歩の影で、PKOに参加された、初の文民警察官の高田警視と、ボランティアの中田さんが、非業の死をとげられました。
今日の平和な国際社会は、こうした方々の偉大な貢献の上に成り立っていることを忘れてはなりません。(安倍晋三首相のFacebookより)
日本の協力によって、カンボジアの乳幼児の死亡率が半減したのをご存知ですか? 日本は、カンボジアの国立母子保健センターの建設を支援し、その後、十年以上にわたって、小児科や助産師の専門家を派遣してきました。このセンターを拠点にして、難しい出産を行うだけでなく、全国津々浦々の600人以上の助産師さんを研修してきました。
まさに「日本流支援」です。
現地では、「ジャパン・ホスピタル」と呼ばれています。こうした地道な協力が、国と国との深い信頼関係につながると信じています。(安倍晋三首相のFacebookより)https://www.facebook.com/abeshinzo
”今日の安倍総理のフェイスブックにも、「今日の平和な国際社会は、こうした方々の偉大な貢献の上に成り立っていることを忘れてはなりません。 」という安倍総理の言葉が書き込まれています。 私はここに「安倍晋三の真髄」を強く感じます。 カンボジアのPKO参加中に殉職された文民警察官の高田警視と、選挙監視ボランティアの中田さんへの思いもそうですし、太平洋戦争で散華された英霊の皆様への思いも感じます。いや、あえて言えば、「日本を作ってこられた方たちすべてへの感謝」も感じられます。 こういう総理大臣は、今までの自民党政権の中にも誰もいなかった。 本当に稀有な存在であり、貴重な方です。 個々の政策では「相違点」があったとしても、「安倍晋三の愛国心」を疑ってほしくない。私はそのことを「すべての草の根保守の皆様」にお願いしたいと思っています。 By なでしこりん
高崎経済大学教授・八木秀次
■参拝できない理由は中韓のみにあらずジャーナリスト・大高未貴
ただ、それと同時に、とても心配なことも考えられる、いや、既に起きているようで・・・
正論7月号(2013年)正論壁新聞より
■中国マネーが再び蠢(うごめ)く?
ノンフィクション作家・河添恵子
(前略)GW最中のその知らせに静岡・山梨両県の自治体や観光業界はもちろん、国民の多くは「良かった」「ヤッタ」「吉報」といった言葉を発した&浮かんだはず。古来より日本文化の象徴として親しまれてきた霊峰が、これで名実共に”世界の宝”となるのだから!
ところが世界的なアルピニストであり、富士山の清掃活動と行ってきた野口健氏のコメント「率直に言って、世界遺産登録は『まだ早すぎる』と感じている」「やるべきことは富士山の山より高く山積みしている」の冷静さにハッと目が覚めた。(※参考:野口健公式ウェブサイト)
その後ネットサーフィンで地元住民らの声を集めると、「交通渋滞がひどすぎる」「排ガスで空気が悪化した」などの苦情、「富士山がさらに”ゴミ山”となる」「天然水も汚染されていくのか」などの懸念、「環境破壊を食い止めるため政府や自治体は入山料の徴収、入山規制、罰金などを決めていくべき」などの意見が続々と・・・。
そして、やっぱりあった。
「中国人観光客のマナーの悪さで環境破壊が加速するだけ」という声が。ちなみに東京ー富士山ー京都ー大阪は、中国人観光客にとっての”黄金ルート”とされる。
ただ、富士山のごみ問題=中国人観光客のせい、と決めつけるつもりはない。自身の頭をよぎったのは「中国マネーによる富士山周辺の土地買収の動きが、再び加速していくかもしれない」という危惧だっが(東日本大震災や尖閣諸島沖のゴタゴタなどもあり、一時は沈静化したように感じていたのだけれど・・・)
震災前の話。
富士山麓の湖畔の好立地に塩漬けにされていたバブル遺産を買収し、中国人仕様にリニューアルしていた北京出身の旅行会社社長がいた。彼は中国紙などに「少なくとも十数棟のホテルを買収する予定」と豪語、同胞に投資を呼びかけていた。とりわけ山中湖周辺が彼らに狙われていることも、現地取材で分かってきた。
なぜ山中湖周辺なのか?
それは富士山や湖水が見える場所にテニスコートなどを整備した民間企業の保養施設が集まっていること、高度成長期に建てた昭和の建物からバブル崩壊で頓挫した平成の建物まで、二束三文で掘り出し物が見つかると踏んでいたからだった。(※参考:廃墟検索地図)
山中湖畔の美術館跡地も、中国民生銀行に変わっている。
人間よりも狐狸のほうが多い林間地に支店を開設したその理由は、経営悪化で売りに出される保養施設などの情報をいち早く入手し、お手付きにするためでは?
「バブル最盛期、山中湖周辺の好立地は一坪60万円前後でしたが、今は3万円から5万円程度でしょう」と、地元の不動産仲介業者は語っていた。が、世界文化遺産登録となれば”超トップブランド”の仲間入り。ロケーション次第で今後の値上がりすら見越せるとなれば、中国を含む世界の投機筋の動きも激しくなるかも。
しかも習近平と李克強のツートップ時代となり、中国国内の粛清が激しさを増す中、灰色黒色の隠し資産を海外へ逃がす方策として、あるいは日本乗っ取りの野望に燃えて、北海道などでは中国系企業(主に太陽光発電企業の日本法人など)による土地買収の動きが再び活発化している。
それもそのはず、空気も水も食べ物も毒まみれの”汚染大国”の住民からみれば、日本の観光地はどこも空気はきれいだし、水は美味しいし、掘れば温泉が出るし、月とスッポンの環境なのだ。
「スナックにまで、中国人の姿が目立つようになった」とは山梨県の石和(いさわ)温泉街の周辺にクラス知人の弁。
同地では中国人資本家の進出のうわさが絶えず、実際に中国人経営者に代わった旅館も幾つかある。石和温泉街は純和風の高級旅館や温泉病院も多いが、近年宿泊者数はピーク時のほぼ半減、100万人を下回ったとも聞いている(涙)。
富士山の世界文化遺産への登録で、浮かれてばかりはいられない。
これを契機に、自然を愛で守ってきた日本人の心意気を再確認し、と同時に、環境破壊が十八番の中国&中国マネーの暗躍に用心しなくては!
ここまで**
余談ですが・・・、PCの具合がよくないのか、ブログに画像が入らない、リンクが自動でできない、自分でリンクさせると段落がずれる・・・など不具合がおきております。
ちなみに、この記事をアップするのに、3時間以上かかりました(泣)
YouTube動画、更新しておきます(再生リストです)
http://www.youtube.com/watch?v=4JVk58Ju64M&feature=share&list=PLJAZIESnSOnpXGnxYYepsUAiQc5a1GYW2