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    2011年3月16日、ンガバのキルティ寺院で何があったのか〜 「彼らは私たちが武力鎮圧を怖れると思っているが、それは考え違いだ」―キルティ寺院僧侶インタビュー、プンツォの焼身から1年によせて

    チベットのこと comments(0) trackbacks(0) まったけの嫁

    チベットNOW@ルンタさんブログより
    ※日本ではほとんど報道しない、チベットの悲惨で過酷な状況がよくわかるブログです。

    2011年3月16日、ンガバのキルティ寺院で何があったのか(上)



    ダラムサラDIIR(情報局)のサンゲ・キャップがチベット語から中国語に訳した;「彼らは私たちが武力鎮圧を怖れると思っているが、それは考え違いだ」――キルティ寺院僧侶インタビュー、プンツォの焼身から1年によせてという2011年3月16日にンガバ、キルティ僧院僧侶プンツォが焼身した時の詳しい経緯を僧侶たちが語ったものをまとめた文章を転載されている。今回これを@uralungtaさんが翻訳し、短い解説も付けて下さった。全体は相当長いので、3回ほどに分けてこれを紹介する。
    原文は>
    http://woeser.middle-way.net/2012/03/blog-post_16.html
    写真説明と四角枠(地の文)以外は@uralungtaさんの解説。

    -------------

    「彼らは私たちが武力鎮圧を怖れると思っているが、それは考え違いだ」――キルティ寺院僧侶インタビュー、プンツォの焼身から1年によせて




    写真説明:画像は2008年3月16日、ンガバのチベット人が僧侶も一般人も平和的抗議活動に立ちあがり、軍と警察の血の粛清を受けた時のもの。当時、銃撃されて射殺されたのは僧侶、学生、牧畜民三十数人で、妊娠中の女性や5歳の幼児、16歳の女性ルンドゥプ・ツォも含まれていた。このようにして、「3月16日」はンガバにとっての重要な日付となった。




    画像は、ンガバで2008年3月16日の激しい抗議が起きた後、がんじがらめに縛りあげられ名札をぶらさげられ、抑えつけられたりひざまづかされたりしているチベット人の僧侶と一般人。名札に読める名前には、テンジン・ジャンツォ、クンチョク・ダルゲ、クンチョク・ダワ、クンチョク・ヤンイ、ロラン・ルパ……(※カナ表記は類推)




    画像は2010年3月16日、実弾を込めた銃を担いだ軍人が荷台に立ってンガバの町中心部に向かう軍用トラック。車体には「阿壩(アバ:ンガバの中国語表記)人民に敬意を」と書かれた真っ赤なスローガンが掲げられており、皮肉極まりない。

    2011年3月16日にチベット本土で2人目の焼身をはかったロプサン・プンツォの、その時ンガバのキルティ寺院で何が起きていたかを、チベット人からチベット人が聞きとり、チベット語で書かれたレポートを、チベット人が中国語訳した文章からの重訳です。(中略)

    ※原文のカッコ書きはカッコ()で訳出、訳者補足はきっこうカッコ〔〕としました。中国語の地名は漢字表記のままとし、チベット語をカタカナにしています。アンサーが「Answer(回答者)」の音写したもの、オーサーは「Author(作者)」を音写したもの

    アンサーA:お目にかかれてうれしいです。あなたの書かれた本は以前から読んでいて、私たちはよくあなたのことを話題にしていました。ようこそいらっしゃいました。

    オーサー:ありがとう。今年〔2011年〕ンガバのキルティ寺院の僧侶の方々が受けて来られた、耐え忍びがたい苦しみと暴虐に、深い同情と慰めを申し上げます。私や多くのチベット人は心の底からキルティ寺院の僧侶の方々を尊敬し、忘れた事はありません。私たちは苦楽を共にしています。

    アンサーB:私たちの生活はまさに暴虐の中にあり、実にがまんできないほどの状態です。しかし、今日ここで貴方に打ち明けることができて、私たちは心の底からなぐさめを得られるように感じています。

    アンサーC:そうなのです。現在、私たちキルティ寺院のたくさんの英雄が、チベットの政治宗教事業のために自らの生命を抵当に入れてこの世を去り、私たちは心と精神が苦痛と辛酸に満ちた状態でこの世に残されました。この苦しみを広く世界の方々に訴えて聞いていただくことを望んで、長い時間を待ちわびていたのです。

    外界のいくつかの公正なニュースメディアには報じられましたが、自分自身の言葉で直接この苦痛を訴えたいと強く願っていたのです。なぜなら、心の底に深く埋め込まれてあまりに長かった……この心の中の痛みを、他の方にお話しすることで、同じ苦しみをわかちあっていただいて、ようやく呼吸をして生きていける感覚を得られるように思うのです。

    私たちは今キルティ寺院から本山のタクツァン・ラモ寺院に来て冬季仏教哲学論理学弁論大会に参加していますが、私たち僧侶の後ろには、1人につき1人ずつの漢人幹部または兵士の監視がついていて、私たちの電話もすべて中国に盗聴されています。

    昨日、私がちょうどここに着いたタイミングで1本の電話が鳴り、私に「どこにいる?」と尋ねてきました。私は「タクツァン・ラモ寺院の冬季仏教哲学論理学弁論大会に参加しています、そのように〔前もって〕報告している通りです」と答えました。実際のところ、彼らは私がどこにいるかを非常に細かく把握しています。にもかかわらず、彼らは常に私たちの動向や行為を疑い、試しているのです。

    公表するにはどうでもいいように思える挨拶と社交辞令のやりとりですが、インタビューに訪れたチベット人取材者がチベット人たちのあいだで名の知られた作家で、初対面ですがお互いに深い信頼関係があることが分かります。思いを共有する立場で話を聞きに来た、というくだりにちょっとじんとしてしまいました。外国人にはそんなこと言えないし、取材する立場だったらなおさら「公平な立場で双方の言い分を聴いて真実を明らかにしたい」とかなんとか言ってしまうものでしょう。

    チベットのチベット人のなかにもいろんな立場や意見の人たちがいて、一人一人違う生活があって、立ち上がる人、国外に出ることを夢見る人、事業や職業でチベットの役に立とうと思う人、進んで共産党の中に入っていって党内でチベットのためのくさびになろうと思う人、心を痛めつつ個人の生活を守らなければならない人、とにかくそれぞれがそれぞれの生き方をしていると思うのですが、この作家の方が、チベット人としてチベットで起きたことを「記録する」という行為を志して、実行して、成功した――書かれた記録と人々の声が「外」に伝わった――のは本当にすごいことです。勇気が必要で、準備と実行力も必要です。チベットの中からチベット人自身が声を伝えてくれることに、敬意と感謝を伝えたいです。

    アンサーD:本心を言うと、今日私は心からうれしく感じています。チベットの幸福を担う方の1人と話し合うことができることに深く慰められ、やすらぐ思いです。元々の計画では、私たちキルティ寺院からは1000人の僧侶が冬季仏教哲学論理学弁論大会に参加するはずでした。しかし、中国政府が私たちをこのように厳しい監視と弾圧下に置き、騒ぎ立て〔たとして〕鎮圧する状況のもとで、弁論大会に参加するよりも行かないほうがましだろうと多くの僧侶が判断させられたために、来ていないのです。

    現在、私たちキルティ寺院の僧侶と寺院周辺の状況は危急かつ極限の状態にあります。焼身をはかった僧侶の僧坊には〔共産党〕幹部が常駐し、襲撃を防ぐためとして、すべてのドアと窓には鉄条網が設置されました。

    私たちと中国当局幹部との関係は日に日に緊張が増していて、関係が改善したり信頼が生まれる兆しは髪の毛1本ほどもありません。彼らは私たちが武力鎮圧を怖れていると思っていますが、それはまったくの考え違いです。中国政府は2008年から今に至るまでなお武力を使って押さえつけていますが、さらに多くの武器銃火器を使ったところで、それはただ私たちの勇気と自信、ひいては中国政府に対する憎しみと恨みをいっそう増幅させるだけで、抵抗をあきらめようとかやめようと考える人など絶対に誰一人としていないのです。これは中国政府の最大の錯誤であり、〔私たちを〕理解していないうえ、特有の政策も変えようとしません。

    私たちに対してよい〔行動を示す〕なら、私たちだって人間です。しかし、私たちに対して〔武力〕鎮圧を実施するなら、私たちだって人間ですから、立ち向かいます

    もし、政府が私たちに対してなんら進歩的で見識のある政策を行わず、軍隊がキルティ寺院から撤収しないなら、抵抗する動きも絶対にとどまることはありません。私たちキルティ寺院の若い世代の僧侶から、中国に対する敵対的な感情が消えたことなどないのです。子どもの僧侶たちなどは、いたずらごっこをするときでさえ、皆、反抗したり焼身をするまねをするほどなのです。

    過去、キルティ寺院は宗教活動を6カ月禁じられる処分を受けました。その後、中国当局幹部は、宗教活動を開放させると述べ、会議で演説を発表しました。その際、中国幹部はキルティ寺院のゲシェ(仏教学博士)・ゾツァン・ツォンドゥに対し発言するよう再三にわたって求めたため、ゲシェはそこでこのように話しました。

    「私は演説はしないと話した通りだが、それでも私に話すよう強く求めるなら、少しだけ話しましょう。最近、たくさんの英雄の息子、娘が衆生のため自らを焼身することに対して、少数の何も分かっていない白痴や権力の犬どもが、『焼身をはかる僧侶や尼僧は戒律を破っている』『彼ら焼身者は破戒僧である』などと言っている。このような論説はまったくの無知である。焼身をはかった者は戒を破ってなどおらず、どの律部の経典――『広戒経』『雑事品』『百業経』など――にも一つとして背いていない。これこそが事実だ。仏の子たる菩薩伝のなかには、他人のため自己の生命を犠牲にするというたくさんの逸話がある。だから、彼ら〔焼身をはかった僧侶尼僧ら〕が戒律を破ったなどと言えるわけはないのだ」。

    しかし会議終了後、ゲシェは中国人に連れ去られました。その後、200人以上の弟子がンガバの町中心部に向かい、中国人に対して、もし午後6時までにゲシェ・ソツァン・ツォンドゥ師を釈放しなければ、我々全員が焼身をはかる、と警告したのです。その日午後、ゲシェ・ゾツァン・ツォンドゥ師は釈放されることができました。もしその日、ゲシェ・ゾツァン・ツォンドゥ師が釈放されなかったとしたら、私たちは必ずや全員が一緒に焼身をはかっていたことでしょう。

    いま思い返しても実にまったく誇りに思います! 私たちの仲間は、これほどまでに一致団結しているのです!

    これだけ話してもまだ全然本題に入っていないところが怖いのですが、とりあえず、続きます。


    2011年3月16日、ンガバのキルティ寺院で何があったのか(中)

    アンサーA:私は愛国英雄〔*1〕のロプサン・プンツォ(2011年3月16日焼身)と同じクラス〔*2〕でした。現在、私たちのクラスは、キルティ寺院のなかでも反抗心が強烈で、同時に、中国政府がとりわけ厳しく監視し抑圧する対象となっています。ロプサン・プンツォは生前、つねづねチベット民族の置かれた状況を語り、とりわけ2008年3月16日にンガバの民衆が中国政府に虐殺された血なまぐさい事件について問題提起していました。彼は常日頃から、苦しみに満ちた表情で、次のように言っていたものです。

    「2008年からンガバの民衆には他とは異なる新たな苦痛が生まれた」「あの大虐殺を我慢して受け入れることなどできない」などなど。

    もちろん、キルティ寺院のほとんどの僧侶が皆同じように言っていましたので、プンツォがほかの人より〔急進的だと〕目立ったことはなく、単なる一般的な言論と思われていました。プンツォは地道で真面目な性格で、身体は屈強で、とても力の強い男でした。力比べでは、私たちのクラスで彼にかなう人はいなかったのです。彼は以前、何人かの友人にそっと言ったことがありました。「自分は心の中の苦しみをこれ以上我慢し続けることができない。2011年3月16日に、世の人に向けて一点の痕跡を残したい」。つまり、彼が焼身をはかった原因は、2008年に始まった弾圧をこれ以上我慢できなくなったことなのです。

    *1: 「愛国英雄」という字面は、共産党のスローガンでよく使われる4文字単語なので、翻訳された中国語文章の中では異彩を放って浮き上がって見えて、あえて反語的にそういう表現を使った何かの皮肉かと思ったものでした。これは原文のチベット語でも「愛国の英雄」という意味の単語で、チベット語では抵抗活動に立ち上がった人たちに対して普通に使われる、特別な意味はない一般的な表現だということです。普通に書いても二重の意味になってしまう現状の皮肉さを思いました。(ま、「愛国烈士」とまであからさまに書いた訳じゃないけどね)

    *2: クラスというと学校みたいですが、チベット寺院の修行階梯はまさに学校のようになっていて、同じ年に出家した人たちが1クラスになって読経や問答や暗誦をして、試験を経て次の修行階梯に進みます。掃除当番や洗濯当番もクラスごとに課せられると思います。俗世を離れ文字通り寝食を共にするのだから仲間意識や絆の強さは相当なものと想像できますけれども、それにしても、Aさんの話しぶりからは、兄弟姉妹のつながりを超えるほどの精神的な結びつきを感じ、胸が痛みます

    ロプサン・プンツォが焼身をはかったあの日は、キルティ寺院ではちょうど〔チベット大蔵経の経・律部〕「カンギュル」の加持が行われていました。



    法要が終わった後、私は寺院の売店に行き、そこで、私たちのクラスの僧侶ひとりが焼身をはかった、と耳にしました。その知らせを聞いた時、胸は悲しみでいっぱいになり、全速力で僧坊に駆け戻り先生に知らせ、また大急ぎで大経堂の前に走り戻る時、ロプサン・プンツォの親戚のケルサン、ゲレク、それから今も監獄に囚われているタルギェやジャプ・ツォンドゥ〔*3〕などの人たちも、息せき切って走って来ましたが、私には、何が起きたのか聞くこともはばかられる様子でした。

    大経堂の周りではたくさんの僧侶が悲しみに頭を抱えて泣き叫んでいて、自分は何をどうしたらよいかも分からず、誰もかれもショックで呆然とし……世界のすべてが悲しみの底に投げ込まれたようでした。まもなく、500人から1000人ほどの僧侶が大経堂の前に集まりました。僧侶たちは、寺院を飛び出してその他の行動に出る〔*4〕準備を始めました。けれど、アラック(トゥルク、リンポチェ)・ドンク・ツァンが説得して、僧侶たちが出て行って抗議することをおしとどめ、僧侶たちに解散するよう求めました。大勢の高齢の信者たちも、僧侶に向かって、泣き叫びながら求めすがりました。

    「私たちの宝であるお坊様方、どうかそのようなことをなさらないでください、私たちはあいつら漢人など相手ではありません、彼らは過去1958年〔*5〕にも文化大革命時にも私たちの数えきれない人数を殺して、いまだ現在に至ってもまだ殺戮をし続けて平気なのです。どうかおねがいします、どうかおねがいします。そんなことをなさらないでください!」

    *3: プンツォへの故意殺人罪を着せられ2011年8月に懲役11年判決を下されたロプサン・ツォンドゥ(ロプサン・プンツォのおじで師)らを指すと思われます。

    *4: はっきりと言及していませんが、つまりはデモをすることを指すと思われます。このインタビューでは「ここに至るまで」の状況が説明されていないのですが、ンガバのキルティ寺院ではここで言及されている2008年3月の惨劇、2009年2月には僧侶タペーがチベットで初の抗議の焼身をはかってチベット内外に大きな衝撃をもたらしたこともあり、3月10日や3月14日をはさむ時期は銃器を持った軍と警察が増強され、戒厳令並みの武力抑圧に置かれていたことが分かっています(そして、その理不尽な抑圧は、ますます僧侶たちの反発を招くだけであったことでしょう……)。

    この場面以降、「寺を飛び出していこうとする」という言葉遣いがたくさんみられるのですが(中国語訳では「冲」…突撃する、突破する、突進する、という動詞が当てられています)、寺院境内から僧侶が外に出る行動に「飛び出す」「突破する」という表現が使われること自体が既に異様な状況といえます。つまり、まだロプサン・プンツォが焼身をはかる前の、何ごとも起きていない時点から、軍と警察が寺院出口を見張り、行動を制限し、僧侶たちが自由に出入りできない状況があったということが分かるわけです。

    *5: 1958年、という年号に、チベット問題を知っている方のほうが、おや、と思われるかもしれません。「チベットの悲劇=1959年」というイメージが強いかと思いますが、ここにはアムドの辛酸の歴史があります。人民解放軍のチベット制圧後、1959年のチベット民族蜂起に至るまでに、1950年代からカム、アムド地域で抵抗活動がおこり、武力殲滅されました。カムの蜂起(1958〜)は「チュシ・ガントゥクの闘い」として有名ですが、アムドではもっと凄惨な大量殺戮が行われ、1958年にゴロクやマチュ、ナクチュなどのアムド各地で大虐殺がありました。そのため、アムドの人々にとっては、1959よりも「1958」が血に刻まれた年号となっているのです。

    〔泣きすがる高齢のの信者たちに〕僧侶たちは次のように答えました。
    「私たちは楽になりたいという欲求に押されて〔抗議に〕突き進みたいのではありません、苦しみに目をそむけずに突き進みたいのです……この人たちが肉体と生命をささげたというのに、私たちがただとどまっていることはできません」。

    その日、私たちは、死ぬことしか考えていませんでした。生き続けることなどまったく考えなかったのです。ただしこの時は、たくさんの若い信者たちが、僧侶たちを外に出ないよう押しとどめました。人間は苦痛が極限に達した時には、恐怖やためらいなどはまったく消え去るものなのです。私は臆病者ですが、その日は死ぬことなどとても簡単なことだという、自然にわきあがるような感覚がありました。

    〔寺院から〕外に〔抗議に〕突き進んだ中心メンバーは私たちのクラスの僧侶で、みな19歳、20歳の僧侶です。同じクラスの同級生という深い感情に動かされて、ある僧侶は泣いて叫びながら外へ突き進み、またある僧侶は自分の胸を叩きながら外に突き進みました。〔*6〕この時、かつてデプン寺院で学んでいたことのある僧侶のケルサンとタルギェ(2008年3月12日にデプン寺院で行われた抗議活動の時に手首を切って抗議した僧侶)が、僧侶たちに対して地面に座るよう命じたため、最終的にようやく皆が座りました。

    日が暮れて空が暗くなるころには、3000人から4000人〔*7〕の僧侶がそこに集まっていて、近くの巡礼者やつえにすがって歩いてきた老人たちが、僧侶たちの前に来て口々に言いました。
    「カド(チベット語で『お願いです』と哀願する意味*8)! カド! カド! お上人様やお坊様が傷つけられることがあってはなりません、貴方がたが傷つけられることは、私たちにとって、チベット民族全体が傷つけられることに等しいのです……」。

    声を張り上げ涙ながらの哀願に、その場全体に号泣がこだましました。あの当時はこのように耐えがたく悲痛な状況で、ですが私たちにはなんの力もなく、なすすべもなく地面に座っていることしかできない状況は、内心とてもつらいものでした。

    *6: 次の段落では地面に座らされており(境内での出来事と思われる)、実際に多くが外に出たのか、説得されて結局は出なかったのか、原文はやや混乱する書き方となっています。

    *7: キルティ寺院の僧侶は全員で2500人と伝えられており、他の寺院の僧侶が来たのでもなければ3000〜4000人は多すぎる人数ですが、原文表記ママとしています。

    *8: 辞書によると「カム・アムドでの出会いや別れの際の挨拶言葉」、アムドの人によると「『万事あなたの思うがままになりますように』という願いや祝福の呼びかけの言葉」とのこと。お坊さんに対し敬意をもって呼び掛ける挨拶言葉なのでしょう。

    この時、チュペルという一人の僧侶が立ち上がって叫びました。
    「私たちがこのような行動に出るのは、ほかにどのような選択もできないからであり、このように外に抗議に向かうことも理解してもらえるはずだ。私たちチベット民族にとって最も大切なものはダライ・ラマ猊下とパンチェン・ラマ猊下お二人の聖者であり、ダライ・ラマ猊下は異境に追いやられ、パンチェン・ラマ猊下は監獄に囚われている。私たちが考えなくてはならないことは、お二人がこのような苦境にあるのはすべてチベット民族のためである、ということだ。私たちはこのことを必ずしっかりと頭にとどめなくてはならない。このような、私たちにはもうほかに選ぶ道はないという考えを除いても、私たちはこの〔聖者2人がチベットのため苦境に置かれている〕ことをしっかりと心に刻んで、現在の状況を論じるべきだ。2008年、やつらはダライ・ラマ法王の肖像を踏みにじり、私たちの心の底に深い深い傷跡を残した。権力の横暴によって、たった一枚の肖像さえ手元に置くことも許されない状況に至っては、我々はもうこうするしかなく、ほかにはもう選択などないのだ!」

    その後、ケルサンも演説しました。
    このとき、ケルサンの妹と弟は泣きながら、「アグ〔おじさん〕ローロー(お願いです)〔もう分かりました〕、話をしないでください」と止めました。ケルサンは「漢人の我々に対する武力鎮圧があるかどうか、私の弟や妹たちを見れば一目瞭然でしょう。彼らはなぜこんなにも泣いているのでしょうか?」などと述べました。
    この少し前、何人かの僧侶はロプサン・プンツォが焼身をはかった場所に駆けつけていました。

    〔キルティ〕寺院のほら貝を吹く役目の僧侶(名前は不明)が「我々は焼身した英雄たちの後に続いて中国に反抗するぞ」と叫び、外に向かって突っ込んでいこうとするのを、彼の父親がつかまえて引き留めましたが、〔彼は〕「アバ〔お父さん〕、彼らが自らの命を燃やすなら、私たちは立ち上がって後ろに続かなくてはならないんです」と叫びながら外に向かって突っ込んでいきました。そのほら貝を吹く係の僧侶は寺院から外に出て、その後逮捕され、今も拘置所で拘禁されたまま、現在も正式な裁判は開かれず判決も下っていません。

    その当日はたくさんの人たちが逮捕されました。中国の軍人は、僧侶と民衆を引き離して細かいブロックに分断するようにして抵抗を抑えつけました。ですから、まだ寺院内に留まっている僧侶たち全員が、ロプサン・プンツォは既に犠牲となったが、逮捕され連れ去られた僧侶を必ず釈放させなければならない、もし釈放しないなら私たちも解散しない、という意思表示をしました。

    もうすぐ太陽が沈んで暗くなろうとするころ、僧侶たちは大経堂の前にたくさんのバターランプ〔チュメ〕を灯し、このとき、携帯電話の電波が途絶えました。けれど今回の抗議は効果があり、それら何人かの僧侶はその晩のうちに釈放されました。
    それが1日目の出来事でした。


    ロプサン・プンツォの同級生の僧侶(仮名「アンサーA」さん)が語る、2011年3月16日当日の一部始終です。

    インタビューから分かるのは、Aさんは寺院境内で悲報を知り、僧坊と大経堂前を走り回り、後は大経堂前で他の僧侶と共に地面に座り込んでいた大勢のうちの1人だったということです。ですから、彼自身が見ていない、ロプサン・プンツォの最期の様子や、外を包囲する軍隊と警察の様子などは話されません。

    当日からかなり長い時間が経ち、僧院内の僧侶たちはさまざまな二次情報や噂を耳にしているはずですが、Aさんはそうした二次情報ではなく、自らが見たこと、聞いたことだけを誠実に話してくれています。それだけに、情報は断片的ですが、描写は生々しく、現場にいあわせた人たちの嘆きと怒りと悲しみがストレートに伝わってきます。自ら確信を持てることだけを語れ、というのはチベット仏教の教えでもあるわけですが、証言者として非常にすばらしい態度で、これが19〜20歳の若い僧侶の語りだと思うと切なくなるし、おそらくは亡くなったロプサン・プンツォもこういう精神の青年だったのだと思うと、ほんとうに悲しくなります。

    RFA(ラジオ・フリー・アジア)やVOT(ボイス・オブ・チベット)などによると、2011年3月16日にンガバで起こった状況は、町の中心部である市場前の十字路でロプサン・プンツォが抗議の焼身をはかった後、軍隊や武装警察がロプサン・プンツォを激しく殴打し、駆けつけた僧侶や集まった住民らが怒ってつめより、暴力で解散させられた▽軍隊と武装警察が寺院の周囲を取り囲み、住民らも僧侶を守るため寺院と軍隊の間に集まって座り込んで対峙し、寺院の周囲が一触即発の状態になった(これがその後一カ月以上兵糧攻めとなる)――と伝えられています。

    こうした情報と重ね合わせると、Aさんの証言がより身に迫ってきます。Aさんは、大経堂前の広場に座り、外がどういう状況か分からないまま(ただし尋常な状態でないだろうことは漠然と推測しつつ)、死を覚悟して、「突破して外に出る」「いや待て」というやりとりをただ聞いていた、ということが分かります。

    寺院の外には重装備の軍隊が銃を向けて包囲している状況で、それを見て境内に入ってきた高齢の信者たちは、どうか出て行かないでください、と僧侶を止め、見てはいないけれど死を覚悟している僧侶は「いや行かなければ」というやりとりが続いた――2008年の惨劇の再現に至らなかったのは、ひとえにアラック(トゥルク)やゲシェや信者の説得だったのであり、軍や警察の殴打や銃撃での弾圧や殺戮を怖れて「おとなしく従った」のでは断じてない、ということがありありと分かります。


    2011年3月16日、ンガバのキルティ寺院で何があったのか(下)

    仮名の僧侶「アンサーA」さんが語る体験の、2011年3月16日の部分が終わり、証言は、翌17日から後の話に移っていきます。



    2日目〔3月17日〕、昼の12時ごろ、プンツォの家族が〔キルティ寺院に〕来ました。

    前日彼は焼身した後、軍人たちにひどく殴りつけられ、僧侶たちが彼を奪い返して、小さな車で彼を寺院に送り戻したのだそうです。その時彼はのどが渇いたと言って水を飲みたがり、お椀1杯の水を飲みました。そのとき、彼の父親が「〔水を飲んで容態が悪化して〕持ちこたえられなかったら、どうするんだ?」と言うと、彼は「アバ〔父さん〕、心配しないで、もうガソリンをしこたま飲んでるんだ」と答えたのだそうです。それからまもなく、彼は何度か真っ黒な液体を吐いて、この世を去りました。

    私たちは同じクラスです。キルティ寺院の伝統では、同じクラスの学生にこのように禍福の出来事が起こったときには、いかなる人にも権力にも干渉されることなく、すべての決定権はこのクラスに帰属します。

    その日〔17日〕の晩、私たちは経文を唱え、追悼祈祷法要を営む準備を整えました。彼の遺品や持ち物は寺院の同じ学年とクラスのものとなり、私たちは彼の遺品を使って彼のための法要を営むことになったのです。その当時、〔ほかにも〕この英雄の遺品を欲しがる人がいて、とてもたくさんの僧侶と一般人が我先にと争って彼の遺体に五体投地の礼を繰り返しました。それで私たちはプンツォの大きな写真を1枚探してきて設置し、民衆と僧侶が五体投地礼をできるようにしました。
    彼の遺品を整理している時、彼がノートにこのような文を書き留めていたのを見つけました。

    「運命と確信があれば勝利できる。失望と懸念は失敗である。」

    私はこの目で彼の書いた文字を見ています。たくさんの人たちが、これらの遺品を保存して歴史の証拠としたいと考え、皆が「キルティ寺院とあなたの同学年、同級生に感謝します!」と言っていました。ロプサン・プンツォの携帯電話はある一般人に買い取られました。「英雄の遺品として秘蔵する」と言っていたそうです。

    中国政府は、私たちのクラスの読経師〔読経の先導を努める指導者〕のタシを尋問しました。彼らの〔尋問〕理由は次のようなものでした。「この事件はキルティ寺院で起こり、しかし具体的にはあなたの学年のクラスで起きたことである」私たちはもともと、〔プンツォの〕遺体を数日間安置する予定でしたが〔*1〕、中国政府は突然、次の日〔18日を指すと思われる〕にはプンツォの葬儀を執り行うよう命令しました。

    *1: チベットでは肉体から離れた魂を次の輪廻に向かわせるため僧侶が一定の時間に所定の経をあげ、葬儀を営む時間もチベットの暦学天文学によって決められます。遺体の取り扱いについては石濱教授が訳出されたロバート・バーネットの解説のなかhttp://shirayuki.blog51.fc2.com/blog-entry-606.htmlでも触れられていて、チベットの文化の中で(チベット人が自らの文化を尊重されていると実感するために)非常に重要であることがわかるのではないかと思います。

    私たちのクラスは、予定の時間通りに追悼や加持などの仏事を営み、〔葬儀の儀礼〕2日目は最高の格式ある儀礼としてセルデン(僧侶の儀仗、錫杖)を並べてプンツォの遺体と写真を迎えました。涙を流さない信者はいませんでした。女性たちは慟哭して言うのでした。

    「ギャワ・テンジン・ギャツォ(ダライ・ラマ法王)の事業〔*2〕のために、チベットの民衆の幸せのために、身を炎に捧げられた……」

    寺院から、僧侶と一般人が手にカターと香を捧げ持って彼の遺体を迎える列が長く続き、また、大きな声で一斉に詠唱される「カンリラウェ・コルウェ・シンカムドゥ……」(ダライ・ラマ法王長寿祈願の詩偈)の唱和が響きました。もうすぐ火葬台に到着しようかという時、ドンク・ツァン・リンポチェが香を捧げ持って引導し、クラスの僧侶全員で遺体を火葬台におさめました。そこに、鉄で作られた箱がありますが、その箱が火葬台です〔*3〕。遺体を火葬台におさめる前に、ドンク・ツァン・リンポチェはロプサン・プンツォの遺体を三度、高く掲げて民衆に仰ぎ見せ、その場のすべての人々はただただ慟哭しました。

    このようにして、この1日〔18日〕は終了したのです。
    (ここまで話が及ぶと、アンサーAは涙で声が詰まり言葉が出なくなりました)

    *2: 法王をチベットに迎えること(チベットに帰還させること)を指すと思われます。

    *3: 「そこに」などの指示語が出てきて意味不明ですが、昔撮ったか当日撮ったかした写真を作家か僧侶のどちらかが持参していて、その写真を示しながら会話したのではないかと思います。


    RFAやVOAを通じて伝えられた情報では、ンガバは翌17日も緊張した状態が続き「僧侶らはデモをしようとしたが住民たちに止められた」(チベットNOW@ルンタ2011年3月18日)といいます。また、ウーセルさんが華人作家朱瑞さんとともに聞き取りをした記録(日本語訳はチベットNOW@ルンタ2011年3月23日)によれば

    17日午後から18日早朝まで、ゴンパの3000人以上の僧侶がプンツォのためにお経をあげた。三千数百人の住民が列を作り、手にカタを持ち、お経を唱え、プンツォに敬意を表した。


    という記述があり、このあたりのできごとを当事者の目から語られたものです。

    3日目は、なんの動きもなく終わりました。

    4日目、私たち何人かが、参拝者の捧げるカターを受け取っていたところに、一人の若い僧侶が走ってきて「彼らが、キルティ寺院の宗教活動を禁止するんだって」と言いました。このような叫び声が何度も聞こえましたが、後になるまで、私たちは具体的な意味は何も分かりませんでした。私は、その時には、もし宗教活動を禁止させることができるなら、そりゃすごいことだ〔やれるものならやってみろ〕、と思ったものです。

    1カ月後、タルギェとジャプ・ツォンドゥが逮捕されました。私たちクラスの学生も全員がブラックリストに入れられました。その後さらにテンジンとナクテンが逮捕されました。彼らが逮捕された口実は、彼らがロプサン・プンツォとチャカン〔茶館〕で焼身の計画を相談したとして責めを負わせるものでした。それによると、彼らが相談して、毎年1人ずつ焼身、もしくは一緒に焼身することを計画したと〔いう荒唐無稽な作り話で〕非難されたのです。

    またしばらく時間が経ち、〔寺院内では僧侶たちに〕詳細な氏名や本籍などを登録させられ始めました。その当時みんなが取りざたしたのは、他の〔四川省以外の〕省〔出身〕の僧侶が追い返されるのではないかということでした。

    ある日、僧侶たちは大経堂の前に集まって貴重品を出し合い、加えて「今晩は絶対に1人の僧侶も彼らに連れて行かせない」と言い合いました。寺院に突入してきた軍人と何人かの僧侶が対峙して、僧侶と軍人はほとんど顔をつきあわせるほどの距離でにらみ合いました。僧侶たちは「キルティ寺院の僧侶は全員が一蓮托生だ、もし僧侶の何人かでも拘束して連れ去ろうとするなら、ほかの僧侶が手をこまねいて傍観しているわけにはいかない」と言い渡しました。それからすべての僧侶が大経堂前に呼び集められ、私も行きましたが、ほどなくして皆また僧坊に戻りました。

    その晩、おびただしい幹部と軍人が〔突入して〕来て、僧侶たちを無理やり連れ去り、酷く殴りつけられた僧侶も少なくありませんでした。
    その日の夜は、さまざまな種類や様式の〔軍と警察の〕車両が集められてきていて、もし何か厳重な問題が発生したら、ある車にはすべての僧侶を徹底的に消滅させて遺体の痕跡さえなくす武器が装備された特殊車両があった、という者もいました。もちろんそれが具体的にどんな武器なのか私には分かりません。

    その日の夜、軍人と幹部たちは私たちを、賊を捕らえるように捕まえてひきたてて、汶川県と茂県〔両方とも四川省阿壩州内のより成都に近い町〕に護送しました。車両1台に二十数人の僧侶が押し込まれ、兵士2人が僧侶1人を押さえつけ、合計で二十数台の車両で僧侶が護送されました。1本のだだ広い大通りを走って連れ去られましたが、その間、他のいかなる車も公道上で見ることはありませんでした。

    その後、私たちは7つのグループに分けられ、18人ずつ1部屋の牢に収監され、そのまま1カ月以上拘束されました。なかには負傷した僧侶が数多くいました。

    私たちは外部の消息を何も聞くことができず、彼らは私たちを騙し続けました。
    二十数日後、幹部たちは大声で私たちを罵りました。「お前たちは法を犯した。外地の寺院で学ぶには手続きが必要なのに、お前たちはその手続きをしていない。だから法律違反だ」

    ある日、ある僧侶が「あなたがたはチベット人の生命を蹂躙している。私たち〔僧侶〕を寺院で生活させないのは、我々の権利と民族に対する侮辱である」という文章を書きました。このことがあって、状況はいったん非常に緊迫しました。私たちも何日間かハンガーストライキをしました

    1カ月以上経って、私たちは身柄を送還されて各地に戻りました。
    だいたいこのような状況で、さらに詳しいできごとは数え切れないほどありますが、簡単に経過を言って、ここまでにいたします。


    RFAやVOAなどで当時報じられた内容で補足すると、この当時、亡命チベット社会では政治的な代表者を民主的に決める選挙が実施され、その様子はチベット本土にも伝えられて、チベット人の意識が盛り上がっているころでした。

    一方、ンガバのキルティ寺院は軍と警察によって封鎖され、電気や水を断たれ、僧侶たちは寺院の中のツァンパで飢えをしのぐしかなくなり、突入を試みる軍警と阻止しようとする人たちが一触即発の状態にあると伝えられ、4月中旬以降、武力行使を止めるようチベット支援団体やチベット亡命政府が国際社会への呼びかけを繰り返していました。

    プンツォの関係者が逮捕された知らせは2011年3月29日ごろ(日本語記事こちら)、軍と特殊部隊の突入は2011年4月21日(日本語記事こちら)と伝えられています。
    記事と比べると、Aさんの目の前で起きたことはほんとうに断片的です。ロプサン・プンツォと同じクラスで「ブラックリスト入り」していた彼は、寺院の他の僧侶たちから「守られる」側にいたと類推されます。情報を遮断された寺院内に閉じ込められ、さらにそのなかで身を隠し、全体的な状況がよく分からないまま、大経堂前に集まったり、僧坊に戻って身を潜めたりしながら、ただ翻弄され、突入した特殊部隊に連行されたのかと思うと、若いAさんがひたすら気の毒でなりません。

    オーサー:
    ああ! なんと大きな苦難に遭われたことでしょう。あなたに感謝いたします!〔*4〕


    *4: 僧侶はチベットのため、衆生のために苦難を引き受けたので、衆生として犠牲に感謝申し上げる、という意味で感謝しているのです。

    アンサーA:私たちの拠り所となるお二人の師(ギャワ・リンポチェとキルティ・リンポチェ)も、〔私たちの〕チベット人のための抵抗の闘いを止めることはできません。私たちの心の中はいま、これ以上耐えられない苦痛に満ちています。中国政府は私たちが武力弾圧〔されること〕を怖がり、発砲に怯え、萎縮すると考えていますが、私はそんなことはありえないと思います。

    私たちの抵抗する敵は、広大な中国人民や開明的な見識ある知識人グループではありません。私たちの真の敵はこの政権です。日々私たちに加えられている鎮圧、騒ぎ立てたと〔いう口実で〕強められる規制は、ンガバ地域の民衆にとってもこれ以上我慢し続けられない限度に達しています。さらには、チベット人幹部も多くの人がもう我慢できないと感じているのです。

    アンサーC:今回、キルティ寺院の僧侶300人以上がこの弁論大会に参加しましたが、どの僧侶の心の中も、みな深く大きな苦痛と苦悩にふさがれています。1人1人心理的な素質は異なりますから、直面する問題やそのあり方も異なりますので、一つ一つを詳細に述べることはできませんが、既に多くの時間を割いてしまいました。今回はここまでにいたしましょう。タ・デモ(どうぞお大事に)〔アムド語の挨拶〕。

    オーサー:はい、そうですね、タ・デモ。チベット3区〔カム、アムド、ウツァンのチベット全土〕の人々の心のなかには常に貴方がたキルティ寺院の愛国英雄たちがあり、たくさんの英雄の息子と娘を永遠に心から支持して尊敬します。私たちにとって最も重要なことは一致団結することであり、私が今回ここへ来たのも、貴方がたを支持するためで、つまるところ、私たちは永遠に一つに結ばれているのです。

    原文はチベット語により2011年12月にアムドにて記録されたもの。
    中国語翻訳:サンギェ・キャプ


    転載ここまで**

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