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    ”我が先人たちはより安全で豊かな国土を子孫に残そうと代々、努力を積み重ねてきた。そして我々は、祖先から受け継いだこの美しい国土を、より安全にして、子孫に残そう”

    未来に語り継ぎたい日本の歴史 comments(3) trackbacks(0) まったけの嫁
    JUGEMテーマ:日本の歴史

    27日の「国際派日本人養成講座」No.821 より
    http://blog.jog-net.jp/201310/article_7.html

    ご先祖様の国土造り 
     我が先人たちはより安全で豊かな国土を子孫に残そうと代々、努力を積み重ねてきた。
     
    1.自然災害は集中的に発生する

     巨大な台風が次々と襲って、各地で大きな被害をもたらしている。今年各地で竜巻まで発生し、阪神、東日本と続く大震災と合わせ考えると、日本列島が「災害集中期」に入ったかと危惧される。
     
     歴史を顧みると、大災害はある時期に集中して起きている。近代では、幕末の安政年間(1854〜1860年)と、終戦直後がそうだった。
     
     安政年間には次のような大災害が続いている。

    ・1854年、東海地震で死者数千人。その30時間後に同規模の南海地震が発生
    ・1855年、江戸地震で7千人以上が亡くなった。
    ・1856年、江戸を大低気圧が通過し、海面が急上昇して、本所・深川などで10万人が溺死。
     
     終戦直後も同様だ。

    ・1946年、南海地震(死者行方不明者約1800人)
    ・1947年、カスリーン台風(約1900人)
    ・1948年、福井地震(約3800人)、アイオン台風(約800人)
    ・1949年、ジュディス台風(約200人)、キティ台風(約160人)
    ・1950年、ジェーン台風(約540人)
    ・1959年、伊勢湾台風(約5100人)
    ( ↑ こんなに続いたのですね・・・)
     
     幕末と終戦直後と、なにやら一つの時代の終わりを画して大災害が集中的に襲ってくるかのようだ。
     
     この昭和34(1959)年の伊勢湾台風以後、千人以上の犠牲者が出た大災害は、36年後の平成7(1995)年の阪神淡路大震災までなかった。この期間は我が国の高度成長期とぴたりと重なっている。
     
     36年間も巨大災害がなかった事で、我々は大災害に備える心をすっかり忘れてしまっていた


    2.災害多発地帯にある日本列島

     我が日本列島は深い緑に覆われ、豊かな海に囲まれた美しい国土であるが、あいにく世界でも希に見る災害多発地帯にある。
     
     日本列島の下では、4つの大陸プレートが押し合って、歪みが各所に溜まっている。その一カ所の歪みが戻って地震が起こると、それが他の歪みに伝播して、別の大地震を誘発する[a]。海に面しているので、地震が起これば津波も襲ってくる。
     
     そのうえ、我が国の大都市はすべて軟弱な地盤の上にある。もともとが、わずか6千年ほぞ前に海面が低下し、河川の押し出した土砂が地盤となっている。岩盤上にある欧州や米国の都市とは違うのである。
     
     また太平洋上に張り出した弓状の形をしており、豪雨と強風を伴う台風の通り道となっている。そのうえ列島中央に急峻な山岳地帯があり、ひとたび大雨が降ると土砂崩れや洪水が襲いかかる。
     
     こうして見ると、地震、津波、台風、洪水など、世界でも希に見る災害多発地帯に我々は住んでいることが分かる。憲法に「戦争禁止」と書けば戦争に巻き込まれないなら、ついでに「災害禁止」と書いて貰いたいほどである。


    3.先人たちが安全な国土を創ってきた

     冒頭の災害集中のデータを見て、気がつくのは、たとえば台風の被害で幕末、終戦直後、そして現在を比べて見ると、死者行方不明者の数が大きく減ってきていることだ。1856年の江戸の台風では10万人が溺死したが、1959年の伊勢湾台風では約5100人となっている。
     

    出典:Wikipedia


     本年の台風26号(上画像)は伊豆大島で土石流災害で死者・行方不明45人という近年の台風では大きな被害を受けた。亡くなった方々にはご冥福をお祈りするしかないが、近年は台風で数百人という規模の被害者が出る可能性はほとんどなくなった。それは我が先人たちが、営々と国土の防災を進めてきたからである。
     
     国土とは単に自然が与えてくれたものだけではない。与えられた国土に人間が手を加えて、いかに安全かつ豊かなものにするかは、その国民の努力にかかっている
     
     世界でももっとも災害の多発する地域にある日本列島は、我が先人たちが数千年をかけて、より安全に、より豊かに、より美しく作りあげてきた国土である。


    4.溜め池を多数築造して、農業生産が飛躍的に増大

     『日本書紀』には、古代の歴代天皇が池や(つつみ:堤防のこと)をつくる(みことのり:天皇の命令、またその命令を直接に伝える文書)が記録されており、それを『国土学事始め』(毎日新聞社、H18)の著者・国土学者の大石和久氏は次のように現代語訳している。

    崇神(すじん)天皇(第10代、3世紀?)
     「農は天下のものである。民の生きていく命綱である。今、河内の狭山の田には水が少ない。よって、この地域では十分に農ができないでいる。池溝を多く掘って民のなりわい(生業)を広めよ。」
     「よさみの池、かりさか池、さすりの池を造る」

    垂仁(すいにん)天皇(第11代)
     「河内にたかいしの池、ちぬの池、大和にさきの池、とみの池を造る。諸国に命じて、多くの池溝を掘らせる。その数八百、これによって、百姓は豊かに富んで天下は太平であった。」
     
     以下、景行(けいこう)天皇(第12代)、応神天皇(第15代)、仁徳天皇(第16代)と同様の記述が続く。
     
     日本は国土が急峻で雨水は海に流れてしまうので、大雨が降れば洪水、降らなければ日照りとなりやすい。これでは安定した農業は営めない。そのために人工の溜め池を各地に造って、洪水を予防し、渇水時に水を安定供給したのである。これによって農業生産が飛躍的に増大したこの時代は、第1次国土創成期とも呼べよう。


    5.江戸前期の高度成長
     
     続く第2次国土創成期は江戸時代前期だろう。マルクス主義史観では、江戸時代265年間は飢饉や農民一揆の暗い時代と描くが、少なくとも前半の120年間は高度成長の時代だった。
     
     家康が征夷大将軍に任命されて江戸に幕府を開いた慶長8(1603)年頃の耕地面積約150万町歩(ちょうぶ:1町歩は1町四方の土地の面積で、3000歩。約9917平方メートル)は、第8代将軍徳川吉宗の享保5(1720)年頃には約300万町歩と倍増し、米の収穫高も1800万石から約2800万石へと大きく伸びている。人口も約1200万人から2600万人と倍以上となった。
     
     この高度成長をもたらしたのが、大河川改修と新田開発だった。戦国時代にまでに蓄積されていた土木力を、徳川幕府による平和の到来によって、各大名が治山治水と耕地開拓に使ったのである。
     
     戦国時代の土木力を示す有名な事例が、秀吉の「備中高松城攻め」である。秀吉は足守(あしもり)川を堰(せ)き止めて河川を横断する堤防を作り、河川水を高松城の周辺に築いた堰堤(えんてい:川水を他に引いたり、流れを緩やかにしたり、また釣り場をつくったりするために築かれる堤防。ダムより小規模)内に導いた。この突貫工事はわずか11日で行われ、高松城は水に浮かんだ。
     
     川の流れを変え、堤防を築いて城をまるごと水に浮かべるだけの土木力をすでに当時に日本人は持っていたのである。


    6.利根川の東遷、荒川の西遷
     
     大河川改修の代表的な例が「利根川の東遷」と呼ばれる事業である。利根川は江戸時代以前には江戸湾(東京湾)に流れ込んでおり、ひとたび洪水を起こすと、頻繁に水路が変わり、流域は度重なる水害に襲われていた。これでは安心して住むこともできず、田畑の耕作もできない。
     
     この利根川の上流を、銚子の方に流れていた鬼怒川と結び、現在のように直接太平洋に注ぐようにした。これにより下流地域の洪水が治まり、耕作地も広がった。さらに東北からの物資を運搬する船が銚子から利根川を遡り、内陸部を通って、江戸に到達できるようになった。それまで房総半島をぐるりと回っていたのに比べれば、はるかに安全な経路となった。

     この「利根川東遷事業」は江戸時代初期に60年かけて推進された。同時に、利根川の上流に流れ込んでいた荒川を西側に迂回させる「荒川の西遷」事業も進められた。この結果、現在の埼玉県東部の治水に大きな効果をもたらすとともに、新たに生まれた土地が新田として開拓された。(※参考:水防・治水の歴史 利根川の東遷/国交省

     

    明治43年洪水被害 札幌ビール前の隅田川の濁流 ( 現在の墨田区役所周辺)


     現在の荒川の下流区間は「荒川放水路」と呼ばれ、明治43(1910)年の「関東大水害」(上画像参照)を契機として着工され、昭和5(1930)年に完成した人口の放水路であることは、あまり知られていない。(※参考:明治時代〜荒川放水路開削工事 / 荒川放水路変遷誌←ダウンロードもできます
     

     実は、筆者も子どもの頃、この荒川放水路の近くで育った。高さ10メートルはあろうかという巨大な土手があり、その向こうには幅100メートルほどの河川敷が広がっている。土手の斜面を草ぞりで滑り降りたり、河川敷で草野球をしたりして、恰好の遊び場だった。その向こうの川は数百メートルもの幅があった。
     
     この巨大な河川が実は人工のものだとは知らなかった。知らされても、すぐには信じられなかっただろう。「荒川放水路」という名前は知っていたが、なぜ単なる「荒川」ではなく、わざわざ「放水路」をつけるのか、子供心に不思議に思ったことはあったが。


     
     明治43(1910)年の関東大水害とは、8月に長雨が続いたため発生した洪水で、家屋流出1500戸、浸水家屋27万戸、死者223人、行方不明245人、堤防決壊300箇所に及んだという。(※参考:明治43年 荒川放水路の契機となった大洪水
     


    本所南割下水付近の惨状 浸水陸上5尺余り


    寺島村 屋根を貫いて2階で生活

     翌年、政府は根本的な首都の水害対策を進めることとし、荒川放水路の建設を決定した。工事着工は大正2(1913)年、完成までに17年を要し、動員300万人、途中、出水や土砂崩れなどで30名近くの犠牲者を出した。しかし、放水路の完成以後は、東京が大きな水害に見舞われることはなくなった。
     

     こうした事を小学校で聞いていれば、安全な生活ができるのも、先人の努力のおかげだと感謝し、自分も子孫のために何かしなければ、と思っただろう。そういう教育をぜひして欲しいものである。
     
     今日の東京都民が世界最大級の都市で安全に生活しているのも、こうした江戸時代以来の営々とした河川改修工事の賜物である。


    7.我が国のほぼすべての大河川が改修されてきた

     関西では、大和川の付け替えが有名だ。(※参考:大和川の付け替え300周年
    大和川は奈良盆地から大阪平野を北上して淀川に流れ込んでいたが、たびたび氾濫して、大きな被害を出していた。たとえば桶狭間の戦いの2年後、1563年には、8日間に渡る断続的豪雨で、河内国の半数が浸水し、死者1万6千人余という被害が出た。(※参考:付替え前の大和川(水害、治水)
     
     この大和川を今の堺市の方向に直線で流すという14.5キロの工事が元禄17(1704)年に行われ、わずか8ヶ月で完成した。

    (※参考:数字で見る付替え工事の規模
    総延長約14.3キロメートル
    幅約180メートル
    堤防の高さ約5メートル
    工事日数225日
    工事費約71,503両(約143億円)
    工事人員約10,000人)


    旧川筋では新田として開拓され、付け替えから5年後には1千ヘクタール以上が開発された。これによる米の増収が幕末には石高1万1千石に達した。(※参考:付替えがもたらしたもの
     
     こうした事例が、有名な河川だけ見ても、以下のようにある。
    ・東北:北上川、最上川、阿武隈川
    ・関東:鬼怒川、渡良瀬川、江戸川、多摩川、鶴見川、富士川
    ・北陸:阿賀野川、信濃川
    ・中部:大井川、天竜川、木曽川
    ・近畿:淀川、桂川、加茂川、加古川
    ・中国:旭川、芦田川、
    ・四国:重信川、吉野川
    ・九州:遠賀川、筑後川
     
     我が国を代表するほぼすべての大河川は、なんらかの改修工事が行われており、それによる治水と新田開発が行われてきたのである。全国各地の小中学生に、故郷を守ってきた先人の恩を教えるための教材には事欠かない。


    8.国土をよりよいものとして次代に引き渡さなければならない

     国土に関する先人への感謝とともに、子孫への義務も思い出さなければならない。というのは、我が国の防災対策は完了とはほど遠い状態にあるのだが、ここ36年間、巨大災害がなかったことで、その事を忘れているからだ。
     
     民主党政権が「コンクリートから人へ」というスローガンを掲げたのが、その不見識の端的な例で、「コンクリートは人の命を守るためにある」ことを完全に忘れていた。
     
     たとえば、三陸縦貫道は、交通量が少なく、便益があがらないとして整備が遅々として進まなかったが、今回の地震では完成していた一部はライフラインとして機能した。逆に言えば、全線開通していれば、救援活動や復興をもっと効率的に進められていたはずである。
     
     日本のように細長い国土は、一部の交通が不通になると国土が分断されてしまう。日本と同じ細長い国土を持ったイタリアは東海岸も西海岸も高速道路が全通しており、片側が地震などで不通になっても、もう片側でバックアップできる。
     
     しかし、我が国では東北地方の日本海側や山陰地方はまだ高速道路が通っていない我々の子孫が安心安全に暮らすためには、まだまだやるべきことはたくさん残っているのである
     
     今上陛下の皇太子時代に教育掛を務めた小泉信三(元慶應義塾長)は、以下の言葉を残している。
     人間の顔が生れたままのものでないと同じく、耕される土地もまた、このように、自然によって与えられたままのものではない。国土は、そういう意味において、国民自身によって造られたものである。
      吾々はこの日本の国土を、祖先から受けて、子係に伝える。鴎外が生れたままの顔を持って死ぬのは恥だ、といったと同じように、吾々もこの国土を、吾々が受け取ったままのものとして子孫に遺すのは、恥じなければならぬ。

     (文責:伊勢雅臣)


    ここまで**

    2013年4月7日のメルマガもぜひご覧になってください
     ↓
    安全な国土を子孫に残そう
    祖先から受け継いだこの美しい国土を、より安全にして、子孫に残すという事は我々の責務である。
    http://blog.jog-net.jp/201304/article_1.html
     



    インドネシアを舞台にしたもう一つの「大東亜戦争」〜終戦後も祖国日本に帰還せず、インドネシア独立戦争に身を投じた約1千人の元日本兵の存在

    未来に語り継ぎたい日本の歴史 comments(0) trackbacks(0) まったけの嫁

    ”インドネシアの親日感情を考える上で、私たち日本人が、決して忘れてはならないことがある。それは、大東亜解放の大義に殉じようと、終戦後も祖国日本に帰還せず、インドネシア独立戦争に身を投じた約1千人の元日本兵の存在だ”


    以下、正論9月号より

    語り継ぐあの戦争
    かくも気高き大東亜戦争
    元日本兵はなぜ、インドネシア独立戦争に身を投じたのか

    新しい歴史教科書をつくる会理事・諸橋茂一


    (前略)
     平成15年3月、私はインドネシアを訪れ、独立戦争を戦われた元日本兵の宮原永治氏(当時83歳、台湾出身)と藤山秀雄氏(同82歳、佐賀県出身)にお会いし、3日間にわたりお話をうかがう機会を得た。お二人とも、元軍人とは思えないほど穏やかな風貌であったが、よく日焼けした顔に刻まれた深い皺に、相当のご苦労をされたことがうかがえた。しかし、そのお話は年齢を全く感じさせないほどしっかりしており、お言葉の節々に込められた、今も変わらず祖国日本を思う心に、私は何度も胸を熱くした。

     「大東亜戦争で私たちは、『アジアの植民地を解放する』という大義の下に戦ったのです。インドネシアの青年たちも、この大義に共鳴し、ペタ(PETA=祖国(郷土)防衛義勇軍)を組織して立ち上がりました。日本が負けたからと言って、彼らを見捨てて日本へ帰るわけにはいかない。そう思って私は、彼らと共に戦うことにしたのです」

     そう語る宮原氏の目は、強固な意志の光をたたえていた。

     宮原氏や藤山氏の様に、日本の敗戦後もインドネシアに残り、独立戦争を戦った元日本兵の人数は約1千人、うち約7百人が戦死したという。ゲリラ部隊のリーダー的な存在として重用された元日本兵は、常に先頭に立って戦ったため、戦死勝率が極めて高かったのだ。

     南国に散華した元日本兵は、ジャカルタのカリバタ英雄墓地などに手厚く葬られている。彼らの戦いぶりはどうだったのか−。宮原さんと藤山さんのお話をうかがってから、ちょうど10年の月日が経つが、その戦いぶりを、私は映像の様に思い浮かべることが出来る。

     今回、その映像の一つを短編小説の様な形にして発表してもらえないかと、本誌編集部から依頼を受けた。もとより小説家の才などないが、元日本兵について少しでも理解を深めてもらえればと、引き受けることにした。

     以下に紹介するのは、宮原氏や藤山氏の実体験ではなく、両者のお話を元に私の頭の中で膨らんでいったフィクションだが、インドネシアを舞台にしたもう一つの「大東亜戦争」を考える上で、特に若い世代の参考になればと思っている。

    ■”黄色い人”の聖戦
     三八式歩兵銃をかまえた腕の上を、小さな蜘蛛がゆっくりと這っていた。か細い八本足の上に、プクッと膨らんだ斑模様の背中が乗っかっている。人間の腕が怖くないのか、それとも、人間の腕だと思っていないのか。

     福山は、伏射の姿勢のまま首だけひねって周囲を見回した。この密林の中に、人間がいると誰が思うだろう。しかし実際には12人の兵士が息を殺し、やがて眼下の小道を通るオランダ軍を待ち伏せしているのだ。

     ふいに前方の茂みが揺れ、福山は身を硬くした。だが、現れたのは、偵察でブドの集落に潜んでいたバジュリだった。バジュリは、その位置からは見えないはずの福山に向かって、真っ直ぐに近づいてきた。

     「オランダ、こないみたい」

     バジュリはこのゲリラ分隊のリーダーで、日本語が少し話せる。彼のところに別のゲリラの仲間から連絡があり、ウセル村のオランダ軍に動く気配は見られないと伝えてきたという。

     「ヨギはどうした?」
     「ブドに残っている。何かあったらここに知らせにくる」

     それを聞くと福山は、伏射の姿勢を崩して立ち上がり、分隊の厳戒態勢を解くため密林に向かって大きく三回手を振った。

     この地方のゲリラが拠点にしていたウセル村をオランダ軍が急襲したのは3日前のことだ。直前で危険を察知したゲリラ側は、装備の充実したオランダ軍と真正面からぶつかることはせず、いったん密林に逃げ込んで機会を待った。一方、オランダ川はウセル村を拠点に小隊単位で移動し、周辺の集落などのゲリラ狩りに躍起になっていた。

     今、福山のゲリラ分隊が陣取っているのは、ブドの集落に続く小道を見下ろす位置にある密林だ。昨日までのオランダ軍の動きから、今日はブドを襲うだろうと福山は読んでいた。ゲリラ側の装備は貧弱だが、ここなら敵に相当な打撃を与えられるに違いない。

     だが、すでに太陽はかなり傾いていた。

     ゲリラ側は夜に動くが、オランダ側が動くことは殆どない。むしろゲリラの夜襲を警戒し、駐屯地に閉じこもって守りを固めている。すると今日は、もう動かないのだろうか。いや、そんなはずはない。密林のある山間地では、長期戦になればなるほどゲリラ側に有利になる。オランダ軍は一刻も早く駐屯地周辺の安全を確保したいはずだ。

     「福山サン、どうする?」
     「もう少し、このまま待ってみよう」
     

     右手を太陽にかざして角度を目測しながら、福山は答えた。日没まであと4時間ほどだろうか。もしかしたら今日は、夕刻になってゲリラが集落に戻ったところを急襲する作戦なのかも知れない。

     「みんなに、そう伝えてくるよ」

     そう言ってバジュリは密林の奥に入っていったが、5分ほどで戻ってきて、福山の近くに腰を下ろした。その様子をみながら、福山はペタ(PETA=祖国(郷土)防衛義勇軍)の教官時代のことを思い出していた。

     ▼ ▼ ▼

     ペタは日本軍政下の1943年、将来の独立を見越して各地で結成されたインドネシア人による本格的軍事組織だ。当時最強とされた日本軍を倣い、階級呼称も「DAIDANCHO(大団長)」「CHUDANCHO(中団長)」「SHODANCHO(小団長)」と日本語そのものだった。戦局の悪化で兵力不足に悩む日本軍は各地のペタを全面支援し、武器弾薬を提供したほか、日本軍将校を教官にしてインドネシア人士官の育成指導に努めた。だが一方、日本軍の歩兵操典を基準にした訓練は厳しく、ときには教官と士官候補生との間に軋轢が生じることもあった。

     教官の1人だった福山も、かつて軋轢に悩んだことがある。南国の気風からか、日本人に比べるとインドネシア人は時間の感覚がややルーズだった。あるとき、集合時間に遅れた候補生3人を炎天下の訓練場に立たせた。ただし福山自身も「時間厳守を徹底できなかったのは教官として不徳である」として一緒に立った。赤道直下の太陽が容赦なく背中を焦がす。教官と候補生との我慢比べになったが、負けるわけにはいかない。福山の背中にはギラギラした太陽だけでなく、宿舎にいる候補性全員の目が注がれていた。

     何時間経っただろうか、意識が朦朧(もうろう)としはじめた時、候補生の1人が倒れた。福山は宿舎に声をかけて別の候補生を呼び、「3人を医務室に連れて行け」と命じた。そして福山自身は、候補生たちが宿舎に入るまでその場に立ち続けたが、意識があったのはそこまでで、気付いたときは自分も医務室のベッドの上だった。隣のベッドに、先ほど倒れた候補生が眠っている。それがバジュリだった。

     この一件以来、バジュリは福山にとって最も信頼のおける候補生となった。日本の敗戦後、福山に「インドネシアに残って一緒に戦ってほしい」と熱心に求めたのもバジュリだった。

     「17・08・05」に発せられたスカルノとハッタの独立宣言は連合軍に無視され、再びインドネシアを植民地にすべくオランダ軍やイギリス軍が進駐してきた。これに対しペタの流れをくむ武装組織が各地で立ち上がり、勇敢に戦ったが、実戦経験が少なかったため、いたずらに死傷者を増やすばかりだった。

     「彼らを見捨てて、このまま日本に帰れようか・・・」。

     三日三晩悩んだ末、福山は宿舎を脱走し、バジュリの部隊に加わった。

     福山の様に、インドネシア独立戦争に身を投じた日本兵は少なくない。直接参加しないまでも、日本兵の多くがあの手この手でインドネシアの武装組織を支援した。武装組織にとって何より必要なのは武器弾薬だ。敗戦により日本軍は、連合軍が進駐するまで現地の治安維持と武器の厳重管理を命じられていたが、「落とした」とか「盗まれた」とか偽って武装組織に横流しした。一方で、日本兵が襲われ、武器弾薬を奪われるケースもあった。武器庫を管理していたある日本兵は、暴徒と化したインドネシア青年たちに襲われたが、一発も発砲することなく、自らの血で「独立に栄光あれ」と壁に書いて絶命した。

     日本が大東亜戦争に踏み切ったのは、自存自衛のためであることはもちろんだが、欧米の植民地として搾取されていた東南アジアの同胞を解放し、共存共栄の大東亜共栄圏を構築するという大義もあったからである。少なくともインドネシアに派遣された日本兵はインドネシア解放の大義に燃え、それは日本の敗戦後も変わらなかった。

     バジュリの部隊に迎えられた福山は、リーダーのバジュリを補佐する立場として実質的に全ての戦闘を指揮した。このためいつも先頭に立ち、夜襲でオランダ軍陣地に斬りこんで行ったこともある。そんな福山の戦いぶりを、部隊のインドネシア青年たちは徐々に吸収していった。

     ゲリラ戦を展開するようになってから3年、今、そばに座っているバジュリの横顔をみて、歴戦の勇士にふさわしい面構えになったと、福山はつくづく思う。もしも自分がいなくなったとしても、この部隊は変わらずオランダ軍を翻弄し続けるに違いない。

     ▼ ▼ ▼

     「来るかな」

     バジュリが聞いた。

     「お前はどう思う?」

     もう一度右手を太陽にかざして、福山は逆に聞いてみた。しかしバジュリはそれに答えず、「福山サンは、来ると思っているんだね」と言った。

     「まあな」

     福山がつぶやいたのを最後に、無言の時が流れた。どれくだい経っただろう、ふと気付くと、小さな蜘蛛がまた一匹、福山の腕を這っていた。八本足の斑模様。先ほどと同じ奴だろうか。

     不意にバジュリが口を開いた。

     「福山サンの思った通りだね」

     それと同時に前方の茂みが揺れて、ヨギが駆け寄ってきた。12,3歳の少年を連れている。

     「オランダ軍が来る。もうすぐ。30人くらい」

     福山は立ち上がり、周囲の密林に向かって、手振りで厳戒態勢をとるように合図した。

     「その子はどうした」

     「この子の父、殺された。カタキ討ちしたいと言っている」

     ゲリラと疑われた村の男がオランダ軍に殺害される事件は各地で起きていた。1947年12月には、独立派指導者の潜伏先とみられた西ジャワの小村をオランダ軍が捜索し、150人以上の男を虐殺したラワゲデ事件も発生している。ヨギによれば、少年の父も3日前、ウセル村を急襲したオランダ軍によって殺された。少年はその後、子供ながらに復讐の機会をうかがっていたが、オランダ軍がブドに向かって出撃の準備をしている様子なので急いで知らせに来たという。

     福山は表情を硬くした。少年はこのままゲリラに参加したいそうだが、この分隊と行動をともにするには幼すぎる。しかも、これからオランダ軍と一戦を交えようという今、銃の扱い方も知らない未経験者を読み取ったのか、少年はインドネシア語で何かを懸命に訴えた。早口なので殆ど理解できなかったが、福山に向かって「黄色い人」と言ったことは、聞き取ることが出来た。

     「福山サン、その子は、おれが面倒をみよう」

     バジュリが言った。どうせ今さらウセル村に追い返すわけにもいかない。福山もうなずくよりほかなかった。

     「じっとしているように言ってくれ」」」

     
     「分かっている」

     バジュリは少年を呼び寄せ、大きな窪地にしゃがませた。そこならオランダ軍の銃弾を受けることもないだろう。

     ヨギが少年に二言三言声をかけてから、福山に向かって頭を下げた。そういえばヨギも、兄を殺されてゲリラに加わったのだ。だから少年を連れてきたのだろう。福山は、密林の奥に入っていくヨギの背中を見送りながら、少年が口にした「黄色い人」のことを考えていた。

     ▼ ▼ ▼

     インドネシアには、「ジョヨボヨ王の予言」という伝承がある。12世紀前半、東ジャワのクディリ王国のジョオボヨ王が宮廷詩人に命じて書き残したもので、北からやってきた”黄色い人びと”が追い出してくれるという「予言」だ。

     「我が王国は、どこからか現れる白い人びとに何百年も支配されるだろう。彼らは魔法の杖を持ち、離れた距離から人を殺すことができる。しかしやがて、北の方から黄色い人びとが攻めてきて、白い人びとを追い出してくれる。黄色い人びとは我が王国を支配するが、それは短い期間で、トウモロコシの花の咲く前に去っていく・・・」

     この「予言」はオランダ植民地時代に民衆の間に広まり、深く信じられるようになった。17世紀初頭から続く”白い人びと”の支配に苦しめられていた民衆は、解放者の出現を待ち望んでいたのだ。一部で独立を求める運動も起きたが、オランダはこれを厳しく弾圧、インドネシア人の集会を禁止し、道ばたで3人以上が話しただけで処罰するほどだった。

     このオランダ支配を打ち破ったのが、北からやってきた”黄色い人びと”、すなわち日本軍だった。1942年3月1日、ジャワ島に上陸した今村均中将率いる第16軍は、僅か9日間でオランダ軍を制圧、”白い人びと”を追い出してくくれたのである。インドネシア民衆は「ジョヨボヨ王の予言が実現した」と歓喜し、各地でメラプティ(後にインドネシア国旗となる紅白旗)を振って日本軍を迎え入れた。

     その後、仁将として名高い今村中将による軍政統治が行われるが、それは、”白い人びと”の支配とは明らかに異なっていた。日本軍はまず、流刑されていたスカルノやハッタら独立運動の指導者を解放し、迫害されていたイスラム教の存在を認めて宗教活動の自由とした。おらんだによる愚民政策を廃し、民衆の教育制度を充実し、農業指導や軍事指導にも努めた。それまで公用語として強制されていたオランダ語と英語を廃し、多くの言語に分かれていたインドネシアに共通語を定めて、民衆の意思統一を図ることにも力を入れた。

     そして1945年8月15日、3年半にわたる”黄色い人びと”の支配は終わった。800年前にジョヨボヨ王が予言した通り、トウモロコシが育つまでと同じくらいの短い期間だった。

     福山はこれまで、インドネシアの人々が目を輝かせて”黄色い人びと”の話をするのを何度か耳にした。その度に、何としてもインドネシアを解放しなければと胸を熱くした。今、少年の口からもれた「黄色い人」の言葉に、福山は大東亜戦争の大義を改めて思い起こしていた。

     ▼ ▼ ▼

     周囲の密林から、人の気配は全く消えていた。風一つ無く、静寂そのものである。伏射の


    姿勢で眼下の小道を凝視しながら、その目の片隅で、福山は小さな蜘蛛を探していた。あれは何の徴だろうか。

     固まっていた空気が、ふっと揺れた。三八式歩兵銃の引き金に指をかける。・・・・・・来た。

     小道をオランダ兵が3人、4人、しばらく間をおいて5人、6人、7人・・・。福山は、勝ったと思った、オランダ兵が明らかに油断しているのが見て取れたからだ。先頭の4人がときおり周囲の密林に目を走らせているものの、それほど警戒している様子はない。

     小道までの距離は40メートルから50メートル。オランダ兵を20人まで数えたとき、福山は小隊長らしき者に標準を合わせ、引き金の指に力を入れた。ダン、と音がして、小隊長らしき者が倒れた。それを合図に密林の小銃が一斉に火を噴いた。パタパタとオランダ兵が倒れていく。小道の両側の草むらに逃げ込み、そこから密林に向かって軽機関銃を乱射するオランダ兵もいたが、巨木や岩に寄り添って伏射している福山たちの敵ではなかった。

     30秒ほどで勝敗が決した。オランダ兵は草陰に身を潜めたが、その草の揺れ具合でおおよその居場所が分かる。ゲリラ側は、そこに小銃弾を撃ち込んでいけばよかった。ついにオランダ兵は草陰を飛び出し、軽機関銃を乱射しながら駆け足で退却を始めた。密林からは途切れることなく小銃弾が浴びせられ、更に2,3人が斃れた。

     完勝だ。そう思って福山は、最後の一発を撃とうとボルトを引いた。そのとき、背後で何かが動いた。振り向くと、少年が興奮して窪みから上半身を乗り出し、石か何かを投げようとしていた。

     「よせっ、危ない!」

     叫んだ瞬間、少年の身体がはじかれたようにのけぞった。斜面を転げるように倒れ、バジュリが引き戻そうと身を乗り出したそのすぐそばを、軽機関銃の銃弾がヒュンヒュンと風を切った。考えるより先に福山の身体が動いた。斜面を駆け上がって少年とバジュリに覆い被さり、そのまま窪みに倒れ込んだ。直前に焼けるような衝撃を背中に受け、福山の意識は飛んだ。

     ▼ ▼ ▼

     密林の木々が下から上に流れていくのを、福山はぼんやり眺めていた。そうか、自分は担架で運ばれているのかー。徐々に背中の痛みの感覚が戻ってきて、福山の口から微かなうめき声が漏れた。

     「福山サン、気がついたか」

     バジュリが覗き込んできて声を上げた。

     担架がとまり、周りにみんなが集まってくる。良かった、誰も欠けていない。あの少年もいた。肩に包帯が巻かれているが、重傷ではなさそうだ。

     少年は、ほっとした様に表情を緩めた。その口が「黄色い人」と動くのが見えた。福山は静かに笑みを返し、そのまま深い眠りに落ちていった・・・。

    (完)


    こういう先人が遺してくれた誇りある”日本の歴史”を、未来の子供たちにも知ってほしい。
    そのためにも、私たち大人が伝えていかなければならないのですが、
    学校の先生方は、あんまり期待できないようで・・・・。
    なら、子供をもつお父さんお母さんに呼びかけて、伝えてもらえばいいですよね。
    いずれにしても、まずは、知らない人に知ってもらうために・・・。



    全文はこちらでお読みくださいませ
     ↓

    出版社名:産経新聞社 740円
    http://www.fujisan.co.jp/product/1482/

    「指輪の約束〜十二回の終戦記念日」〜日本を護るために戦われた兵士の方々に感謝を伝え続けていきたい(佐波優子氏)

    未来に語り継ぎたい日本の歴史 comments(3) trackbacks(0) まったけの嫁
    JUGEMテーマ:靖国神社

    って下さった方々
    感謝

    by 佐波優子さん


    出典:日刊スゴい人 より



    佐波さんの、この思いにとてもとても共感しているブログ主です。
    先月、送られてきたやまと新聞(平成25年7月15日)に、そんな佐波さんの記事がありましたので、ご紹介します。

    日本を護るために戦われた兵士の方々に感謝を伝え続けていきたい
    指輪の約束〜十二回の終戦記念日

    ジャーナリスト 佐波優子

     終戦から68年目の夏が巡ってきた。終戦記念日に編⊃声劼筝邱饋声劼帽圓と、忘れることのできない出会いが訪れ、毎年その思い出が増えていく。今回は終戦記念日に起こった思い出を書いていきたい。

     私が初めて終戦記念日の編⊃声劼忙嫁劼靴燭里12年前22歳の時だった。この年は小泉首相が参拝を明言した年で、首相参拝は2日前倒しされたが、参拝に訪れた方々は12万人にのぼり、ピーク時には前に進めないほどであった。私は学生スタッフとして腕章をつけていて誘導などにあたっていた。そのとき、70歳くらいの男性から声をかけられた。体調が悪くなり、どこか休める場所を探しているという。混雑をぬって休憩所に案内すると、男性は辛そうに座った。お兄様が戦死されてから毎年編⊃声劼鯔れていたが、体調を崩してからはずっと来られなかったという。「東京は変わったね。でもここだけは変わっていない」背中を丸くしながら座り、杖に両手を乗せながら男性は当たりを見渡した。

     「だが、参拝もこれで最後だろうね」と俯いた。昨年癌が見つかり、もう来られないだろうから最後の参拝に来たんだと話した。男性は少し震えながらゆっくりと人差し指から銀色の指輪を引き抜いた。指輪をかざしながら「これは兄の形見だった。妻を早く亡くした兄は指輪を置いて出征した」と話した。当時は結婚指輪は相当珍しかったのだという。大切に保管し、両親が亡くなった後は男性が指にはめて参拝を続けていた。「だが、今日はこれを兄の元に埋めていこうと思っていたんだ」まるで散骨をするかのように、指輪を境内の池の中に沈めるか参道脇の土に埋めようと思って来たらしい。男性はしばらく黙った後、「お嬢さん。この指輪を受け取って、あなたが私の代わりに兄への参拝を引き継いでくれないかな」と言った。私は言葉に詰まり、丁重にお断りした。短大生の私には、大切な品も参拝の約束も受け継ぐ自信がなかったからだ。「お願いだ。どうしても若いあなたに頼みたい」と、男性は私の右手に指輪を乗せた。銀色に見えた指輪は濃い紫色に黒ずんでいる。もし少しでも役に立てるのであれば。私は男性の跡を請け負うことを約束した。

     それから毎年、指輪と一緒に参拝している。私の指には大きすぎるから、布に包んで携えている。その翌年は武道館で行われる全国戦没者追悼式に出席した。式典では隣に座った男性が茶色いハンカチを目に押し当てたままでいる。泣いているのだろうか。お顔は良く見えないが、80才代位に思える。式典が終わり心配して男性を見ると目が合った。真っ赤な目をしている。「あなたはお孫さんですか」「いえ。昨年ニューギニアの遺骨収集に行ったので、参列させていただいております」そう答えると、男性は「うん・・。少しお時間はありますか」といって話し始めた。戦時中に男性がフィリピンに出征したとき、体の弱い男性を常に助けてくれていた一人の戦友がいたのだという。戦友は鹿児島出身で、まるで西郷さんのような体格と人柄だったそうだ。仲間の士気が下がったとき、「国に尽くすことは家族を守ることと同じだ」と言う言葉が口癖で、そのたびに部隊は力付けられていたという。ある日、行軍中に激流の川を渡らなければならなかったことがあった。雨の後で川の流れは刻々と早くなっているから急いで渡らなければならない。「お前が先に渡れ。自分は子供のころから毎日のように川で泳いでいたから」そういって戦友は皆を先に渡らせた。最後に戦友が川に入ったとき、更に流れが強くなり戦友は一瞬足を滑らせた。「あっ」「つかまれ」部隊全員が見守る中、戦友は両手で川に突き出た太い枝につかまった。うつぶせの状態だった。「しっかりしろ」「手を離すな」という怒声の中、戦友はしばらくバタ足をするかのように足をかき、顔を上げて呼吸を続けていた。だが大きな流れが来て一瞬視界から消えた後、そこにはもう枝しか残っていなかったという。「あいつは、家族ではなくて俺たちを護って死んじまった」片づけられていく武道館中央の白と黄色の菊の花を見つめながら男性はいった。そのあとも戦地で多くの戦友を亡くしたが、毎年8月15日のこの式典ではあの川に流された戦友のことばかり思い出すのだと話した。「今はもう、国や家族を護るなんていう日本人はいなくなったな」最後にそういって男性は武道館を出て行った。

     27歳の時は出張で終戦記念日に参拝することが出来ず、後日編⊃声劼悄そこで、大村益次郎の銅像辺りで困っている様子のご年配の夫人に会ったので声をかけた。ご婦人は毎年遺族会で参拝に来ているが今年は都合で参加することが出来ず、後日こうして北海道からお一人で来たのだという。「毎年ここに来ているのに、一人で来たら何も出来ない。私は駄目ね」とほほ笑んだ。お父様はノモンハンで亡くなっていた。私はその日は偶然、昨年参加したノモンハン事件の遺骨収集の写真を人に見せる約束があり、写真を持っていた。そのことを話すとご婦人は驚き、二人で参拝したあと売店で冷たい茶を買って写真を見ながら話をすることにした。何時間も話し込んだ。ご婦人は書籍の写真などで地形を見ることはあったが、写真でノモンハンの地やご遺骨を見るのは初めてだという。ご婦人は、仏壇に供えたいから写真を一枚分けていただけないだろうかといった。ネガを持ってきているから。夕方の約束の時間までには十分焼き増しも間に合うだろう。写真を全て女性に渡すと、大変喜んでくださった。ご兄弟にも配るという。今でもあの写真を大切にしてくださっているのだろうか。そうだとしたら、本当に嬉しい。

     29歳の時。私が夕方半蔵門線で神社に向かっていると、真新しい遊就館の紙袋を下げた高校生くらいの少女が車内に立っている。何かおかしい。そうだ。編⊃声劼らの帰り道のはずなのに、なぜ神社に向かう方向の電車に乗っているのか。九段下駅に着くと、やはり一緒に降りた。ついホームで「あの、遊就館の袋を持たれていますけれど、午前中にも参拝したんですか」と話しかけてしまった。その通りだという。少女は本殿に参拝するつもりで早起きして一人で編⊃声劼妨かい、まず遊就館の展示を見た。思ったよりも時間がかかってしまい、予備校の夏期講習があったので参拝は諦めて帰った。だが授業中も参拝できなかったことが頭から離れず、どうしても終戦記念日に参拝したいと、授業が終わった後にまた千葉から出てきたのだという。なぜそこまでして参拝したかったのか。尋ねると、今の日本があるのは兵士のお蔭だからだと答えた。地下鉄の出口を出るともう夕日になっている。少女は教科書の入ったカバンと紙袋を下げて九段の坂を再度登って行った。

     33歳の時は栃木県の護国神社に出席し、お父様をニューギニアで亡くされたというご遺族の男性と話をした。父親のいない農家の家で、相当な苦労をされたらしい。境内での合同慰霊祭が終わると、男性は私に名刺を下さった。もう退職したから、昔の職場の名刺だという。農協の名刺で隅は折れており、あちこちに指の形のような泥がついていた。常に小奇麗な名刺を渡さなければならない現代のビジネス社会では、泥が付いた名刺は珍しい。だが母と子だけで農業を行い、名刺に構えないほどのご苦労をされたのだろうか。男性は一人で玉砂利を踏み境内を出て行った。広いまっすぐな道の境内では、遠くに米粒みたいに小さくなるまで、背中を丸めて歩く男性の姿はなかなか消えなかった。

     こうして12年、終戦記念日に指輪と一緒に参拝を続けてきた。そのたびに忘れられない出会いがあった。全ての年の出来事は書ききれなかったが、他にも自衛官を目指している少年、毎月1回参拝に訪れる地方の会社員の若い女性など毎年様々な人に出会った。8月15日は護国の鬼として散華された英霊に対して多くの日本人が感謝と慰霊の思いを馳せる日で、だから普段はあまり語られることにない戦争への思いが語り継がれるのではないだろうか。

     あの指輪を託された男性はどうなっただろう。もう亡くなってしまったのだろうか。でもこれから何があっても、この指輪の約束だけはずっと果たし続けたいと決心している。そして日本を護るために戦われた兵士の方々に感謝を伝え続けていきたいと思っている。


    ここまで**


    今月13日のチャンネル桜の撫子日和では、12年前の8月15日に受け継ぐことになった指輪のエピ­ソードについて語っておられます。
      ↓

    【撫子日和】指輪の約束、受け継いだ参拝の思い
    http://youtu.be/kX5BOD_PfUM



    参考
    佐波さん関連サイトです(^▽^)/
     ↓
    ・佐波さんの公式ブログ:世界の子供たちの笑顔
    http://ameblo.jp/kodomo-egao/
    ・おじいちゃんへの手紙
    http://sky.geocities.jp/childlen_smile/
    ・「大東亜戦争を戦った全ての日本軍将兵の方々に感謝を」〜9年間の遺骨収集を通じて感じたもの〜(アパグループ第三回「真の近現代史観」懸賞論文)
    http://www.apa.co.jp/book_ronbun/vol3/2010japan.html
    英文はこちら
    ・自虐史観派が増えたら、間違いなく日本は亡国への道を転げ落ちるだろう【正論1月号:佐波優子著】現代若者たちの戦争百景〜記憶も知識も断絶した先に「唖然」「頭痛」「共感」・・・ http://nippon-end.jugem.jp/?eid=2582


    関連動画
    ・【シンクプラスナイト】遺骨収集に生涯を捧げる女性【佐波優子】
    http://youtu.be/ueXzvdmYpmg


    ・【佐波優子】フィリピン遺骨収集レポート(桜H21.12.8)
    http://youtu.be/1ZOs0mhmzTU
    ・【遺骨収集】4370体が足止め状態に・・・[桜H21/12/1]
    http://youtu.be/_t96RZbLLII
    ※佐波キャスターも参加したフィリピンでの遺骨収集事業。それがフィリピン側の「焼骨行為」が違法であるとの主張により日本に連れ帰ることが出来なかった。一部にはODAと­の引き替えを示唆する話があったとされており、今後重大な外交問題になりかねない状況について語られています。。

    ***************************************
    ・【撫子日和】 反日思想に汚染される入試問題[桜H23/11/29]
    http://youtu.be/xtVuYQF-Miw

    ※文字起こしは、過去記事に掲載してます


    さいごに

    やまと新聞
    http://www.yamatopress.com/index3.php

    私も会員です!
    やまと新聞会員について(入会方法)は こちらから
    ※ねずさんのひとりごとのやまと新聞の紹介記事をぜひご覧くださいませ⇒【拡散希望】やまと新聞を守れ!




    【終戦の日】全国戦没者追悼式での天皇陛下のお言葉、安倍首相の式辞、そして昭和天皇による「開戦の詔勅」と「終戦の詔勅」

    未来に語り継ぎたい日本の歴史 comments(1) trackbacks(0) まったけの嫁
    JUGEMテーマ:歴史認識について

    昨日8月15日は、終戦の日でした。
    毎年この日は、先の大戦において亡くなられた方々を追悼し平和を祈念するため、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とされており、今年も日本武道館では全国戦没者追悼式が行われました
    式典には、安倍総理をはじめ、衆議院議長、参議院議長、最高裁判所長官、関係団体の代表、遺族の方々など約6000人が参列し、先の大戦における全戦没者に対して追悼の誠を捧げました。安倍総理の式辞の後、正午の時報を合図に参列者全員で1分間の黙とうを捧げ、続いて天皇陛下がおことばを述べられ、その後、衆議院議長、参議院議長、最高裁判所長官、戦没者遺族代表がそれぞれ追悼の辞を述べ、参列者による献花が行われました。


    【終戦の日】
    天皇陛下のお言葉全文
    http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130815/plc13081513490029-n1.htm
    2013.8.15 12:48

    全国戦没者追悼式でお言葉を述べられる天皇陛下と皇后陛下=15日、東京都千代田区の日本武道館(鈴木健児撮影)

     本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。
     終戦以来既に68年、国民のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、苦難に満ちた往時をしのぶとき、感慨は今なお尽きることがありません。
     ここに歴史を顧み、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。


    安倍総理の式辞も素晴らしい文章です。

    戦没者追悼式、安倍首相の式辞<全文>
    http://www.asahi.com/politics/update/0815/TKY201308150077.html
     天皇皇后両陛下の御臨席を仰ぎ、戦没者の御遺族、各界代表多数の御列席を得て、全国戦没者追悼式を、ここに挙行致します。

     祖国を思い、家族を案じつつ、戦場に倒れられた御霊、戦禍に遭われ、あるいは戦後、遠い異郷に亡くなられた御霊の御前に、政府を代表し、式辞を申し述べます。

     いとしい我が子や妻を思い、残していく父、母に幸多かれ、ふるさとの山河よ、緑なせと念じつつ、貴い命を捧げられた、あなた方の犠牲の上に、いま、私たちが享受する平和と、繁栄があります。そのことを、片時たりとも忘れません。

     御霊を悼んで平安を祈り、感謝を捧げるに、言葉は無力なれば、いまは来し方を思い、しばし瞑目(めいもく)し、静かに頭を垂れたいと思います。 

     戦後わが国は、自由、民主主義を尊び、ひたすらに平和の道を邁進(まいしん)してまいりました。

     今日よりも明日、世界をより良い場に変えるため、戦後間もない頃から、各国・各地域に、支援の手を差し伸べてまいりました。

     内にあっては、経済社会の変化、天変地異がもたらした危機を、幾たびか、互いに助け合い、乗り越えて、今日に至りました。

     私たちは、歴史に対して謙虚に向き合い、学ぶべき教訓を深く胸に刻みつつ、希望に満ちた、国の未来を切り拓(ひら)いてまいります。世界の恒久平和に、能うる限り貢献し、万人が、心豊かに暮らせる世を実現するよう、全力を尽くしてまいります。

     終わりにいま一度、戦没者の御霊に平安を、ご遺族の皆様には、ご健勝をお祈りし、式辞といたします。

     平成25年8月15日
     内閣総理大臣 安倍晋三


    出典:おーるじゃんる

    全国戦没者追悼式-平成25年8月15日 (政府インターネットテレビ)
    http://nettv.gov-online.go.jp/prg/prg8320.html


    安倍首相の式辞全文を読めばわかりますが、”近年の歴代首相が表明していたアジア諸国に対する加害と反省や「不戦の誓い」には触れませんでした。

    首相、村山氏以降の「反省」踏襲せず 戦没者への言葉を強く意識
    http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130815/plc13081521240042-n1.htm
    2013.8.15 21:20 [安倍首相]
     安倍晋三首相は15日、政府主催の全国戦没者追悼式の式辞で、近年の歴代首相が使用してきたアジア諸国の人々に損害と苦痛を与えたとする「反省」を踏襲せず、戦没者に語りかけながら未来志向の恒久平和を誓うスタイルをとった。「不戦の誓い」という言葉も使わなかった
     「反省」に代わって「歴史に対して謙虚に向き合い、学ぶべき教訓を深く胸に刻みつつ、希望に満ちた国の未来を切り拓(ひら)いてまいります」と述べ、歴史を直視する姿勢を示した

     首相の式辞では、平成5年に細川護煕氏が初めて近隣諸国の犠牲者に「哀悼の意」を表明した。6年の村山富市氏以降は戦争の加害責任と「深い反省」にも言及、「多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対し、多大の損害と苦痛を与えた」(平成24年の野田佳彦氏)という文言が決まりになっていた。
     安倍首相も第1次政権の19年には「深い反省」を述べた。しかし、今回は細川氏より前のスタイルに戻したといえる

     政府高官は「歴史問題を言うのは韓国と中国だけであり、追悼式は日本の国民、犠牲者向けのものだ。首相は謙虚な姿勢もみせている」と強調した。


    靖国神社への参拝を見送った安倍首相ですが、決して落胆することはないと、私は思います。安倍首相のぶれない言動からは、いつも「強い信念」を感じとれるからです。

    --------------------

    ところで、8月15日は、日本国民に対し、天皇陛下より、「終戦の詔勅」(※玉音放送)を賜った日でもあります。

    当時、日本が戦争を起こすときは天皇が開戦の詔勅を発し、講和あるいは終戦の詔勅で、 戦争が終結したことを知らせてきたのです。開戦の詔勅には、日本がなぜ他国と戦争するのかという記述が簡潔に書かれてあります。 日本はなぜ戦争をしたのか、日本人から見た答えがここにあります。終戦の詔勅からは、昭和天皇がどんな想いで起草し、読まれたのか、なぜ「昭和の御聖断」と言われたのかわかるかと思います。ぜひ、「終戦の詔勅」「開戦の詔勅」ともご覧になってください。


    昭和天皇「終戦の詔勅」

    ※玉音放送 口語訳
     昭和20年8月15日
     世界の情勢と日本の現状をよくよく検討した結果、ありえないと思われる方法をあえてとることにより、この状況を収拾したい。常に私に忠実であるあなたがた臣民の皆さんに、今から私の決断を伝えよう。
      私は日本政府担当者に米国、英国、支那、ソビエト連邦の4カ国に対して、日本が(ポツダム)共同宣言を受け入れると伝えることを指示した。
     

     そもそも私たち日本国民が穏やかで安心な暮らしができ、世界全体と繁栄の喜びを共有することは、歴代の天皇が代々受け継いで守ってきた教えであり、私自身もその教えを非常に大事なことと考えてきた。最初に米英2カ国に宣戦布告した理由も、日本の自立とアジアの安定を願う想いからであり、ほかの国の主権を侵したり、その領土を侵したりすることが、私の目指すところであったわけではない。
      しかれども、戦争はすでに4年も続いており、我らが陸海軍人たちの勇敢な戦いぶりや行政府の役人らの一心不乱の働きぶり、そして1億人の庶民の奉公、それぞれが最善を尽くしたにも拘わらず、戦況は必ずしも好転せず、世界の情勢を見るに、日本に有利とはとても言えない状況である。

      その上、敵は残虐な新型爆弾を使用して多くの罪のない者たちを殺傷し、その被害の及ぶ範囲は、測ることもできないほどに広がっている。
    もしもこれ以上戦争を続ければ、最後には我が日本民族の滅亡にもつながりかねない状況であり、ひいては人類の文明すべてを破壊してしまいかねない。
     
     そのようなことになれば、私は、どのようにして1億人の民を守り、歴代天皇の霊に顔向けすることができようか。
    これが私が政府担当者に対し、共同宣言に応じよと指示した理由である。

     私は、アジアを(西欧列強から)解放するために日本に協力してくれた友好国にたいして大変申し訳なく思う。また、日本国民であって戦地で命を失った者、職場で命を落とし、悔しくも天命をまっとうできなかった者、そしてその遺族のことを考えると、心も体も引き裂かれんばかりの思いがする。戦争で傷つき、戦災被害にあって家や仕事を失った者たちの暮らしについても、非常に心配に思っている。
      この後、日本が受けるであろう苦難は言うまでもなく尋常なものではないであろう。みなさん臣民の悔しい思いも、私はよくよくそれを分かっている。
      しかれども、私は時代の運命の導きにそって、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、これからもずっと続いていく未来のために、平和への扉を開きたい。


      私はこうやって日本の国の形を守ることができたのだから、忠誠心が高く善良な臣民の真心を信頼し、常にあなたがた臣民とともにある。
      感情の激するがままに事件を起こしたり、もしくは仲間同士が争って世の中を乱したり、そのために道を誤って世界からの信頼を失うようなことは、最も戒めたいことである。
     何とか国全体が一つとなり、子孫にまでその想いを伝え、神国日本の不滅を信じ、任務はとても重く、行く道は非常に遠いことを覚悟して、将来の建設に向けて総力を結集し、道義を守り、志と規律を強く保持して、日本の力を最大に発揮することを誓い、世界の先進国に遅れをとらずに進むのだという決意を持とうではないか。
      私の臣民たちよ、ぜひともこの私の意思をよくよく理解してもらいたい。

    西村幸祐 @kohyu1952 さんの TwitLonger より)


    http://youtu.be/LSD9sOMkfOo

    ※御署名原本
    http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Icho/3935/ww2/genpon.html


    そして、「開戦の詔勅」です。


    大東亜戦争 開戦の詔勅(米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)

    http://www.geocities.jp/taizoota/Essay/gyokuon/kaisenn.htm
    【口語訳】
    神々のご加護を保有し、万世一系の皇位を継ぐ大日本帝国天皇は、忠実で勇敢な汝ら臣民にはっきりと示す。
    私はここに、米国及び英国に対して宣戦を布告する。
    私の陸海軍将兵は、全力を奮って交戦に従事し、私のすべての政府関係者はつとめに励んで職務に身をささげ、私の国民はおのおのその本分をつくし、一億の心をひとつにして国家の総力を挙げこの戦争の目的を達成するために手ちがいのないようにせよ。

    そもそも、東アジアの安定を確保して、世界の平和に寄与する事は、大いなる明治天皇と、その偉大さを受け継がれた大正天皇が構想されたことで、遠大なはかりごととして、私が常に心がけている事である。

    そして、各国との交流を篤くし、万国の共栄の喜びをともにすることは、帝国の外交の要としているところである。

    今や、不幸にして、米英両国と争いを開始するにいたった。
    まことにやむをえない事態となった。
    このような事態は、私の本意ではない。

     
    中華民国政府は、以前より我が帝国の真意を理解せず、みだりに闘争を起こし、東アジアの平和を乱し、ついに帝国に武器をとらせる事態にいたらしめ、もう四年以上経過している。

    さいわいに国民政府は南京政府に新たに変わった。

    帝国はこの政府と、善隣の誼(よしみ)を結び、ともに提携するようになったが、重慶に残存する蒋介石の政権は、米英の庇護を当てにし、兄弟である南京政府と、いまだに相互のせめぎあう姿勢を改めない。

    米英両国は、残存する蒋介石政権を支援し、東アジアの混乱を助長し、平和の美名にかくれて、東洋を征服する非道な野望をたくましくしている。

    あまつさえ、くみする国々を誘い、帝国の周辺において、軍備を増強し、わが国に挑戦し、更に帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与へ、ついには意図的に経済断行をして、帝国の生存に重大なる脅威を加えている。

    私は政府に事態を平和の裡(うち)に解決させようとさせようとし、長い間、忍耐してきたが、米英は、少しも互いに譲り合う精神がなく、むやみに事態の解決を遅らせようとし、その間にもますます、経済上・軍事上の脅威を増大し続け、それによって我が国を屈服させようとしている。

    このような事態がこのまま続けば、東アジアの安定に関して我が帝国がはらってきた積年の努力は、ことごとく水の泡となり、帝国の存立も、まさに危機に瀕することになる。

    ことここに至っては、我が帝国は今や、自存と自衛の為に、決然と立上がり、一切の障害を破砕する以外にない。

    皇祖皇宗の神霊をいただき、私は、汝ら国民の忠誠と武勇を信頼し、祖先の遺業を押し広め、すみやかに禍根をとり除き、東アジアに永遠の平和を確立し、それによって帝国の光栄の保全を期すものである。



    ■参考
    ・昭和天皇のご聖断と鈴木貫太郎総理
    http://ktymtskz.my.coocan.jp/cabinet/suzuki.htm#4
    ・戦没者慰霊事業の実施(厚生労働省)
    http://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/hokabunya/senbotsusha/seido01/index.html

     ↓ 拙ブログ終戦関連過去記事です。よろしければご訪問くださいませ。
    ・”若者よ、君たちが生きるきょうという日は死んだ戦友たちが生きたかった未来だ”(八杉康夫氏) http://nippon-end.jugem.jp/?eid=3246
    ・これまでの歴史認識を一変させる中松氏の論文: 日本は負けていない〜超経験者しか知らない真実〜著者 中松義郎博士 http://nippon-end.jugem.jp/?eid=2420
    ・8月15日は、日本国民に対し、天皇陛下より、玉音放送を賜った日〜自国の戦没者を悼む原点に返れ http://nippon-end.jugem.jp/?eid=2063


    ■さいごに
    15日午後、ソウルの在韓国日本大使館前

    安倍政権の閣僚らが靖国神社を参拝した日本政府への抗議集会で、看板などを燃やす保守系団体のメンバーら


    【動画】靖国神社を参拝した各国の軍人
    ※アップロード日は、3年前(2010年)ですが、ご存じの方は少ないのでは?
    http://youtu.be/qoU7GKeulHc





    【百田尚樹:永遠の0(ゼロ)】 ”人間の美しい真心、そして「大東亜戦争を戦った日本軍兵士は軍国主義に騙されて無駄死にをした」という戦後のイデオロギーを粉砕している”この本が一人でも多くの人に読まれますように・・・

    未来に語り継ぎたい日本の歴史 comments(0) trackbacks(0) まったけの嫁
    JUGEMテーマ:注目★BOOK


    ”この小説のテーマは「約束」です。
    言葉も愛も、現代(いま)よりずっと重たかった時代の物語です。”


    この物語、私も先日購入しました!



    ◎ストーリー
    大学生の佐伯健太郎と、出版社に勤める姉の慶子は、亡くなった祖母・松乃の四十九日から暫くした頃、祖父・賢一郎から実の祖父の存在を知らされる。 「お前たちの母・清子を連れて松乃は太平洋戦争後に私と再婚した。お前たちの実の祖父は、松乃の最初の夫で終戦間際に特攻で戦死した海軍航空兵だ」――。

    それから6年後、司法浪人が長く続き人生の目標を見失っていた健太郎は、フリーライターとなった慶子から、新聞社で主宰される終戦60周年記念プロジェクトの協力を頼まれる。プロジェクトを進める高山は、神風特攻隊のことを「テロリスト」だと語るが、祖父の話もありその考えに釈然としない慶子は、このプロジェクトに際して特攻隊員だった実の祖父・宮部久蔵のことを調べようとする。姉弟はわずかな情報を元にその足取りを追い始めた。

    戦闘機搭乗員としてラバウル航空隊で一緒だったという男は、久蔵について「海軍航空隊一の臆病者」「何よりも命を惜しむ男だった」と姉弟に蔑みの言葉をぶつけた。健太郎は元戦友から初めて聞く祖父の話に困惑し、調査を続ける気を無くしていたが、母から健太郎と同じ26歳で亡くなった父・久蔵がどんな青年だったのか知りたいと改めて頼まれ、更に手がかりとなる海軍従軍者たちを訪ね歩く。だが、生前の久蔵を知る者達の語ることはそれぞれに全く違っており、調べるほどにその人物像は謎に包まれていた。戸惑いつつも二人は、国のために命を捧げるのが当然だったと言われる戦時下の日本と、そこに生きた人々の真実を知っていく。
    凄腕のゼロ戦乗りで、卑怯者と誹られても、「娘に会うまでは死なない」と松乃との約束を守り続けていた久蔵は、なぜ特攻に志願したのか?終戦60年目の夏に、長きにわたって封印されていたその壮絶な生涯と驚愕の事実が明らかになる。(永遠の0−Wikipedia より)



    以下、購読している伊勢雅臣さんの「国際派日本人養成講座」メルマガより
    ※購読申込(無料)はこちらから⇒
    http://blog.jog-net.jp/

    No.811 命の使い方 〜 『永遠のゼロ』から
    http://blog.jog-net.jp/201308/article_2.html

     家族や世のため人のために自分の命を使おうと思えばこそ、その大切さに気がつく。

    ■1.「僕の心はきれいな水で洗われたかのごとく清々しさで満たされた」

     百田尚樹氏の『永遠のゼロ』が売れ続けている。すでに240万部に達し、年末(12.21ロードショー)には映画も公開される。(※参考:岡田准一「壮大な愛感じて」映画「永遠の0」完成 12月に全国公開


    その裏表紙には、内容をこう紹介している。

    「娘に会うまでは死ねない、妻との約束を守るために」。そう言い続けた男は、なぜ自ら零戦に乗り命を落としたのか。終戦から60年目の夏、健太郎は死んだ祖父の生涯を調べていた。天才だが臆病者。想像と違う人物像に戸惑いつつも、1つの謎が浮かんでくるーー。記憶の断片が揃う時、明らかになる真実とは。

     小説としての出来も素晴らしい。文庫本で600頁近い大作でありながら、読者をぐいぐいと引っ張っていく構成と筆力は見事だ。最後の結末は圧巻で、芸能界きっての読書家として知られる故・児玉清氏は、「解説」で次のように書いている。[1,p588]

     なぜ、あれだけ死を避け、生にこだわった宮部久蔵が特攻で死んだのか。それは読んでのお楽しみだが、僕は号泣するのを懸命に歯を食いしばってこらえた。が、ダメだった。目から涙がとめどなく溢れた。・・・
     なんと美(うるわ)しい心の持主なのか。なんと美しい心を描く見事な作家なのか。なんと爽やかな心か。涙の流れ落ちたあと、僕の心はきれいな水で洗われたかのごとく清々しさで満たされた。


     私も同様の思いをした。人間の美しい真心を描いて、大東亜戦争を戦った日本軍兵士は軍国主義に騙されて無駄死にをした、という戦後のイデオロギーを粉砕している。

     この本が、一人でも多くの人に読まれることを願って、以下、私が二番目に感動したシーンをご紹介したい。一番目はもちろんラストシーンだが、それは読者自ら原作を読んで、「心をきれいな水で洗われる」体験をしていただきたい


    ■2.「お前にもぜひ聞いてもらいたいのだ」

     健太郎は姉と共に、かつて祖父と一緒に戦ったことのある元海軍飛行兵曹長・井崎源次郎を都内の病院に訪ねた。ロビーには、井崎の娘という50代の女性と、その息子が待っていた。息子は髪を金髪に染め、派手にペイントしたオートバイ用のヘルメットを抱えている。

    「父は戦友会から、宮部さんのお孫さんから連絡があったと知らされた時は、大変驚いておりました。父の体はかなり悪くて、医者からは、あまり興奮するような話はしないようにと言われていましたが、どうしても会うと言って聞きませんでした」

     病室に入ると、ベッドの上に痩せた老人が正座していた。「お父さん、座ってなんかいて大丈夫なんですか」と慌てる娘に、「大丈夫だ」と力強く応えて、「井崎源次郎です」と頭を下げた。

     それから孫に向かって、
    「誠一、お前も一緒に聞きなさい」
    「俺には関係ねえこどだろ」
    「関係はないが、お前にもぜひ聞いてもらいたいのだ」

     井崎は健太郎の方に向き直ると、もう一度居住まいを正して、「宮部さんと出会ったのはラバウルです」と、ゆっくり話し始めた。


    ■3.「何という凄腕! 何という早業!」

     宮部らがニューギニア島のラバウルにやってきたのは、昭和17(1942)年7月だった。皆に挨拶があって、解散してから、宮部は井崎に「よろしくお願いします」と声をかけた。

     階級章を見ると一飛曹(一等飛行兵曹)で、下士官の一番上の階級である。一飛兵(一等飛行兵)の自分とは、とてつもない差がある。井崎は慌てて「こちらこそ、よろしくお願いします。わたくしは井崎一等飛行兵と言います」と大きな声で答えた。

    「自分は宮部久蔵一飛曹です。よろしくお願いします」と軽く頭を下げた。こんな丁寧な口をきく上官にあったのは初めてだった。よほど育ちが良いのか、あるいは馬鹿なのか、どちらかだと思った。

     翌日、ポートモレスビーに出撃。ここには連合軍の基地があり、ここを奪えばオーストラリアはすぐ先にある。一小隊3機、3小隊の9機編成で、一番後方の小隊の2番機が宮部、3番機が井崎だった。

     スタンレー山脈を越え、わとわずかでポートモレスビーが見える地点に来た時、突如、上空の雲の隙間から敵機が襲いかかってきた。隊の一番、後方に位置していた井崎機に、敵の一番機が背中から食いついてきた。「やられる!」と井崎は思った。

     その時、井崎機を狙っていた敵戦闘機が突然火を吹いて吹き飛んだ。次の瞬間、井崎の目の前を一機の零戦がすごいスピードですり抜けた。宮部機だった。宮部は更にもう一機を撃墜し、旋回して逃げようとする敵機の背後に鋭い旋回で回り込み、一連射で撃ち落とした。

     この間、僅か数秒。何という凄腕! 何という早業! 井崎は鳥肌が立った。この頃の零戦は世界の戦闘機の中でも抜きんでた性能を誇っていた。(※リンク:零戦 〜 世界の航空常識を覆した3日間)その名機を宮部は完璧に使いこなしていた。


    ■4.「敵を堕とすより、敵に堕とされない方がずっと大事だ」

     空襲を終えて基地に戻ると、井崎は真っ先に宮部に礼を言いに行った。宮部は笑っただけだった。 しかし、その後、一緒に戦っていると、ただ一つ、ひっかかる事があった。宮部はひっきりなしに後方を振り返り、また死角となる下方を見るために背面飛行も頻繁にやる。乱戦になると、いち早く逃げ出して、同じように戦域から逃れてきた敵機を狙う。臆病者かと思った。

     やがて宮部が小隊長になり、井崎はそのまま列機を務めるようになった。「他の小隊から妙に思われるので、丁寧言葉はおやめ下さい」と、井崎は頼んだ。

     宮部の消極的な戦い方を物足りなく思った井崎は、一度、小隊を離れて、敵戦闘機の背後にへばりついた事があった。敵機を撃ち落としたと思った瞬間、後ろから撃たれた。2機の敵機が背後から挟み撃ちするようにくっついている。左右どちらに逃げてもやられる。井崎は死を覚悟した。

     次の瞬間、敵の銃撃が止んだ。後ろを見ると、一機の敵機が火を噴いて錐揉み状態で墜ちていった。もう一機は急降下で逃げていった。後ろには零戦が一機いた。宮部機だった。宮部に命を救われたのは、これで2度目だった。

     基地に戻った時、礼を言う井崎に、宮部はにこりともせずに言った。「いいか、井崎。敵を堕とすより、敵に堕とされない方がずっと大事だ。たとえ敵機を討ち漏らしても、生き残ることが出来れば、また敵機を撃墜する機会はある。しかし、一度でも撃ち落とされれば、それでもうおしまいだ」

     死を覚悟した直後のせいか、宮部の言葉は心の底にずっしりと響いた。

    「私がこの後、何度も数え切れないほどの空戦で生き延びることが出来たのも、この時の宮部小隊長の言葉のおかげです」とベッドの上の井崎は、健太郎たちに語った。


    ■5.「娘に会うためには、何としても死ねない」

     宮部はいつも夜半に宿舎を離れ、1時間以上も戻ってこなかった。ある日の夕暮れ、井崎が隊舎から離れた川に一人で釣りに行った帰りに、宮部が上半身裸になって、壊れた飛行機の銃身を片手で何度も持ち上げている光景を見た。

     宮部が立ち去った後、井崎は自分でその銃身を持ち上げようとしたが、重くてまったく持ち上がらない。両手でやっと持ち上げることができた。これを片腕一本で上下動させられるとはなんたる怪力。宮部一飛曹の華麗なる操縦技術はこの怪力に支えられていたのだ。

     翌日、「小隊長は毎日やっておられるのですか」と聞くと、黙って頷く。「今日はもうやめようと思う日はないのですか」とさらに聞くと、おもむろに胸ポケットから布袋を取り出し、その中に入っていた写真を見せた。それは若い婦人が生まれて間もない赤ん坊を抱いている写真だった。

    「6月に生まれました。ミッドウェーから戻ってすぐに生まれたのですが、休暇が取れず、会いにいくことが叶いませんでした。ですからまだ一度も会ってないのです。辛い、もう辞めようと、そう思った時、これを見るのです。これを見ると、勇気が湧いてきます。

     それから宮部小隊長は、写真を胸ポケットにしまうと、つぶやくようにこう言った。
    「娘に会うためには、何としても死ねない」

     その顔は普段の温和な彼からは想像もつかないほど恐ろしい顔だった。


    ■6.「無理だ。こんな距離では戦えない」

     8月7日、ガダルカナルの戦いが始まった。ラバウルから約千キロもある。「無理だ。こんな距離では戦えない」と、宮部は悲痛な声で言った。それを聞いた若い一人の士官が怒髪天を衝くが如くの形相で向かってきた。

    「貴様、今、何と言った」と言うが早いか、宮部の顔面を殴った。「貴様は宮部だな。貴様の噂は聞いているぞ、この臆病者め!」 士官はそれだけ言うと、その場を立ち去った。

     片道千キロでは巡航速度で3時間もかかる。戦闘時間は10分少々で、また3時間かかって戻る。その間に敵機が待ち伏せているかもしれないし、方位を見失って無駄な航路を取ると、燃料が足りずに帰還できなくなる恐れもある。

     その日、出撃した17機の零戦のうち、帰還できたのはわずか10機だった。その後に日本海軍のエース・パイロット坂井三郎も重傷を負って、なんとか帰還した。(※リンク:大空のサムライ〜坂井三郎

    宮部と井崎は、翌日出撃し、なんとか無事に帰還したが、爆撃機の方は大半が帰還できなかった。そんな戦いが連日続いた。


    ■7.「貴様が死ぬことで悲しむ人間がいないのか」

     10月のある日も宮部の小隊はガダルカナル攻撃に参加したが、3番機の小山上等兵は宮部の命令を無視して、敵を深追いして、グラマンを2機撃墜した。しかし、それによって燃料を使い過ぎた。

     ラバウルへの帰還途中、小山は「ラバウルに帰れそうもないから、ガダルカナルに戻って自爆する」と合図をしてきた。宮部は「何とか頑張って、帰還しろ」と合図し、燃料を節約するための高度や速度で細かい指示を小山に与えた。

     しかし、基地まであと10分という所で燃料が尽き、小山機は海上に不時着して沈没、小山は海に飛び込んだ。基地に帰還した後、すぐに水上機を向かわせたが、すでに小山の姿はなく、数匹の鱶(ふか)が泳いでいた、という。

     井崎は悔しさのあまり、宮部を問い詰めた。
    「どうして小山に自爆させてやらなかったのですか?」

     宮部は「飛び続ければ助かるかもしれないが、自爆すれば、かならず死ぬ。死ぬのはいつでもできる。生きるために努力をすべきだと答えた。

    「どうせ、自分たちは生き残ることは出来ません。もしわたくしが被弾したなら、潔く自爆させてください」と井崎が悔し泣きしながら訴えると、宮部はその胸ぐらを掴んで、こう言った。

     井崎! 馬鹿なことを言うな。命は一つしなかい。貴様には家族がいないのか、貴様が死ぬことで悲しむ人間がいないのか。

     その時、不意に5歳の弟、太一の顔が脳裏に浮かんだ。泣きじゃくる顔が見えた。後にも先にも宮部に怒鳴られたのは、この時だけだった。しかし、この時の宮部の言葉は、井崎の心に深く沈んだ


    ■8.「なぜ、今日まで生きてきたのか、今、わかりました」

     その後、井崎はラバウルを離れ、空母「翔鶴」の搭乗員となった。昭和19(1944)年のマリアナ沖海戦で、敵戦闘機と激しい空中戦の結果、燃料タンクを撃ち抜かれた。もはや母艦にも帰れず、せめて敵機を道連れにしてやれと、体当たりを決意した。

     その時、宮部の怒鳴り声が頭の中に響いた。「井崎! 貴様はまだわからないのか!」 同時に幼い弟の顔が浮かんだ。井崎はなんとか敵機の編隊から抜け出し、海面に不時着してから、9時間も泳いで、グアム島に泳ぎ着いた。何度も諦めかけたが、その都度、「兄ちゃん、兄ちゃん」と泣きながら呼ぶ弟の顔が浮かんできて奮い立った。「しかし本当に私を助けてくれたのは、宮部小隊長だったと思っています」と、ベッドの上で井崎は語った。そして、こう続けた。

     実は、私は、ガンです。半年前に、医者からあと3ヶ月と言われました。それがどうしたわけか、まだ生きています。
     なぜ、今日まで生きてきたのか、今、わかりました。この話をあなたたちに語るために生かされてきたのです
    [1,p252]

     その時、井崎の孫が大きな声で泣き出した。その母親もハンカチで目を抑えていた。健太郎の姉も嗚咽を漏らしていた。

     井崎は窓の外の空を見つめて言った。「小隊長、あなたのお孫さんが見えましたよ。二人とも素晴らしい人です。男の子はあなたに似て、立派な若者です。小隊長---、見えますか」

     しばらく後、井崎源次郎の訃報を受けとった。焼香の時、孫の誠一を見かけたが、長い髪は短くなり、金髪は黒くなっていた。言葉は交わさなかったが、健太郎に深々と頭を下げた。

     健太郎の中でも変化が起こっていた。しばらく諦めていた司法試験にもう一度挑戦してみようという気になっていた。かつて人々のために尽くしたいと弁護士を志した気持ちを取り戻したのだった。

     家族や世のため人のために自分の命を使おうと思えばこそ、その大切さに気がつくのである。
    (文責:伊勢雅臣)


    転載ここまで**


    12.21 ROADSHOW
    この空に願う、未来。永遠の0(ゼロ)

    http://www.eienno-zero.jp/

    映画『永遠の0(ゼロ)』オリジナル予告編
    http://youtu.be/zi5nO8JuoZQ


    2013年12月21日より、全国東宝系にて公開予定。
    撮影は2012年6月にクランクインし、奄美大島や鹿児島、茨城などでアクロバティックな空撮も行なわれ、近年の実写映画では稀に見る3か月に及ぶ壮大なロケとなった(※参考:岡田准一「永遠の0」で特攻隊員役 三浦春馬&井上真央と共演[映画.com ニュース])。
    制作にあたって、作中に登場する旧日本海軍の零戦は、現存する唯一オリジナルエンジンで飛行可能な零戦からエンジン音が収録され使用されるほか(※参考:所沢の零戦、映画で復活 設計者の生涯描く2作品が今年公開)、新たに零戦21型の原寸大模型が制作された。映画での使用後はゆかりの地である大分県宇佐市によって買い取られ、市平和ミュージアムに展示される(※参考:原寸大の零戦模型、一般公開 大分・宇佐)。
    本作は2013年5月に逝去した俳優夏八木勲の遺作となった。


    ■関連動画
    永遠の0(ゼロ) 〜 宮部久蔵の「辞世の詩(うた)」
    http://youtu.be/LMyW8vk-iNE


    ※動画概要文より
    つい先日、百田尚樹著「永遠のゼロ」を読んだ。ミリオンセラー、きしくも、彼(本の主­人公といっていいかな?)が、特攻出撃した時の心境は、この歌詞のようであったのだろ­う・・・・・
    読まれた方にはお分かりと思うが、阿久悠先生、この本を読んだかのような詞を遺されて­いる。この本の初版発売から1年後に他界されているので、読まれてからの作詞なのか、­それとも詞は既に出来ていて、偶然,その心境が一致したのか・・今となっては知るよし­もない。
    いずれにしても、 ♪想い出よありがとう♪ は、言の葉一つひとつを大切に、優しく慈しむように、そして後半には、心情ほとばしる­叫びとなって、聴く者の胸にジンジンと響いてくる。
     "ありがとう"  ほんとうに美しい  "やまとことば" を・・・
    2012年1月20日記す(アップロード・限定公開)
    片道の燃料で死地へ向かう若者の心情に思いを馳せこの曲を重ねてみた。悩みぬいた後は­意外にサバサバしたものだったのかも知れない。自分の場合、果たしてこのような心境に­到達できるのだろうか?


    ■映画「永遠のゼロ」のキャスト
    宮部久蔵 - 岡田准一
    佐伯健太郎 - 三浦春馬
    松乃 - 井上真央
    佐伯慶子 - 吹石一恵
    清子 - 風吹ジュン
    賢一郎 - 夏八木勲
    井崎 - 橋爪功(青年期:濱田岳)
    武田 - 山本學(青年期:三浦貴大)
    景浦 - 田中泯(青年期:新井浩文)
    大石 - 染谷将太
    小山 - 上田竜也(KAT-TUN)
    山田 - 佐々木一平
    伊藤 - 青木健
    香川 - 遠藤雄弥
    寺西 - 栩原楽人
    長谷川 - 平幹二朗

    ◎スタッフ
    原作:百田尚樹 「永遠の0」(太田出版)
    脚本:山崎貴、林民夫
    監督・VFX:山崎貴
    製作:「永遠の0」製作委員会
    企画:アミューズ
    配給:東宝
    制作プロダクション:ROBOT
    VFXプロダクション:白組
    制作協力:東宝映画

    ◎主題歌
    「蛍」
    作詞・作曲 - 桑田佳祐 / 編曲・歌 - サザンオールスターズ(ビクタータイシタ/SPEEDSTAR RECORDS)
    永遠の0−Wikipedia より)

    ■映画「永遠の0」Twitter公式アカウント @eienno0_movie
    https://twitter.com/eienno0_movie


    ■さいごに
    永遠のゼロ(文庫本)はこちらからも購入できます
     ↓





    76年前の今日、通州事件が起きました〜日本人が大虐殺された隠された歴史

    未来に語り継ぎたい日本の歴史 comments(4) trackbacks(0) まったけの嫁
    JUGEMテーマ:歴史認識について

    今から76年前の今日、通州事件が、起きました・・・

    この事件は、昭和12(1937)年7月29日に起きた支那保安隊による日本人大虐殺事件です。冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)保安隊(中国人部隊)が、華北各地の日本軍留守部隊約110名と婦女子を含む日本人居留民約420名を襲撃し、約260名が虐殺された事件です。(参考:通州事件-Wikipedia


    日本人大虐殺された歴史。
    された歴史、通州大虐殺


    風林火山 さんブログ(2011/09/27付記事) より

    通州事件を忘れるな!
    http://ochimusya.at.webry.info/201109/article_21.html

    日本人が絶対に忘れてはならない事件がある。

    それは昭和12年に起きた、通州事件だ。

    通州事件(つうしゅうじけん)とは、1937年(昭和12年)7月29日に発生した事件で、「冀東防共自治政府」保安隊(中国人部隊)による日本軍部隊・特務機関に対する襲撃と、それに続いて起こった日本人居留民(朝鮮系日本人を含む)に対する虐殺事件である。

    当時の日本が支那に和平を訴えても、このような支那人による恐ろしい極悪非道のホロコースト(大量殺戮)が日本人に対して行われていたということだ。

    しかしながら、日本の敗戦後、戦勝国に都合のよい歴史を押しつけられ、鬼畜・支那人によって何度となく行われた日本人市民に対する極悪非道の残虐な事件は、東京裁判でも却下され、忘れさせられてしまった。

    戦勝国は日本を侵略国と定義する為、日本の被害はすべて闇に葬られた。

    さらに断じて許せない事は、支那人が日本人市民に対して行ったおぞましい殺戮の証拠写真を、日本人が支那人に対して行った証拠写真として捏造し、日本政府を糾弾する外交カード、そして現在の中国人の反日教育に利用されている。

    加えて、この悪夢のような事件から既に70年以上経過しているが、根本的な支那人(漢民族)の気質は全く変わっていない。

    2年前のウィグル暴動に関して、当ブログ記事「ウイグル暴動の真相」でも伝えたのだが、「逃げ回るねずみを追いかけて、ぶっころすような感じで、(漢民族に)ウイグル人が一人一人殴られて、死ぬまで殴られていく・・・」、「ウイグル人の女性が中国人(漢民族)に集団レイプされ、そのうち二人が、首を切り取られ木にぶらさげられ・・・」という事件だ。 

    ちなみに日本のマスコミは、これらの事実(ウィグル暴動の真相)を一切報道していない。

    NHKを筆頭に、反日マスコミは、日本の自虐史観は繰り返し報道するものの、日本こそが、酷い被害者であった事、そして特亜の闇の部分は一切報道しない。

    話を通州事件に戻そう。下方に、通州事件に関する資料(動画やテキスト、参考URL)などを張り付けておく。


    通州事件(Wikipedia):
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E4%BB%B6
    済南事件(Wikipedia):
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%88%E5%8D%97%E4%BA%8B%E4%BB%B6



    http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/018/714/03/N000/000/000/131694444849113117045.jpg


    ※【動画を見られる方へ】
    動画は削除される可能性が高いので、PCへダウンロードすることをお薦めします。


    ※「通州事件とは?」の動画は既に削除されているので、別の動画を追記しました。
     ↓
    【シナチス】南京大虐殺にすり替えられた通州事件とは?1

    http://www.youtube.com/watch?v=AjDJzO_SRfE&feature=share&list=PLRReuSkzUbACN8FiHNrYl45y5Prt-6MbA

    恨みは深し通州城 奥田英子
    http://youtu.be/9aFaxTs6IzA ←こちらもアカウント削除により閲覧不可だったので、別URLで加筆しました。↓
    http://youtu.be/NG3TOn9uuAk

    akiraplastic1 さんが 2011/12/13 にアップロード

    通州事件の真実 Sさんの体験談 01
    http://youtu.be/U7vJtEzXo_g
    通州事件の真実 Sさんの体験談 02
    http://youtu.be/8lFoaBcKAPY
    通州事件の真実 Sさんの体験談 03
    http://youtu.be/lVkRoG8NAn0
    通州事件の真実 Sさんの体験談 04
    http://youtu.be/xpv2a9s_mfU
    通州事件の真実 Sさんの体験談 05
    http://youtu.be/WcINl5PCAMA


    【警告】
    下方の動画の画像には、当時の白黒写真による殺戮現場・惨殺された遺体などが含まれます。心臓の弱い方などは、動画を見ないでください。

    通州事件の記録写真と南京大虐殺の捏造 [反日が作成した南京大虐殺の写真は、すべて通州事件のもの]
    http://youtu.be/JZl9wUDt5U4


    ======================================

    悪獣も及ばぬ猟奇の惨殺劇

    中国保安隊は我が守備隊や特務機関を攻撃したのみならず、日本人居留民の家を一軒残らず襲撃し、無辜(むこ)の居留民(多数の老幼婦女子を含む)に対して略奪、暴行、凌辱(りょうじょく)、殺戮(さつりく)などおよそ残虐の限りを尽くした。

    中国兵特有の猟奇的な殺害、処刑の場面が白昼堂々、各所で展開された。

    その凄惨(せいさん)なること、かつての南京・済南両事件を上回り、我が軍の危惧(きぐ)した通り、尼港事件の再現となったのである。

    東京裁判で弁護側は、同事件に関する外務省の公式声明を証拠として提出したが、ウエッブ裁判長はこれを却下した。

    所謂(いわゆる)"南京事件"で裁判長が中国側の公式資料を証拠として採用した事を考えると、公平を欠いた裁判指揮であった。

    しかし虐殺現場を目撃した証人の宣誓口供書は受理されたので、そこから惨劇の一端を拾い出してみよう。

    当時、天津歩兵隊長及び支那駐屯歩兵第2連隊長で、7月28日の南苑戦闘に参加した後、30日午後通州に急行して邦人救援に当たった萱島高証人は凡(およ)そ次の如く証言した。

    「旭軒(飲食店)では40から17〜8歳までの女7、8名が皆強姦され、裸体で陰部を露出したまま射殺されており、その中4、5名は陰部を銃剣で刺殺されていた。商館や役所に残された日本人男子の死体はほとんどすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、血潮は壁に散布し、言語に絶したものだった。」

    まさになぶり殺しではないか。

    中でも悲惨を極めた旅館・近水楼での惨劇について通州救援の第2連隊歩兵隊長代理を務めた桂鎮雄証人の供述は次の通り。

    「近水楼入口で女将らしき人の死体を見た。足を入口に向け、顔だけに新聞紙がかけてあった。本人は相当に抵抗したらしく、着物は寝た上で剥(は)がされたらしく、上半身も下半身も暴露し、4つ5つ銃剣で突き刺した跡があったと記憶する。

    陰部は刃物でえぐられたらしく、血痕が散乱していた。帳場や配膳室は足の踏み場もない程散乱し、略奪の跡をまざまざと示していた。女中部屋に女中らしき日本婦人の4つの死体があり、全部もがいて死んだようだった。

    折り重なって死んでいたが、1名だけは局部を露出し上向きになっていた。帳場配膳室では男1人、女2人が横倒れ、或(ある)いはうつ伏し或いは上向いて死んでおり、闘った跡は明瞭で、男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のようだった。

    女2人はいずれも背部から銃剣を突き刺されていた。階下座敷に女の死体2つ、素っ裸で殺され、局部はじめ各部分に刺突の跡を見た。1年前に行ったことのあるカフェーでは、縄で絞殺された素っ裸の死体があった。

    その裏の日本人の家では親子2人が惨殺されていた。子供は手の指を揃(そろ)えて切断されていた。南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の死体が路上に放置してあったが、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた」

    (注)近水楼を襲撃したのは武装した黒服の学生団と保安隊であった。彼らは女中数名を惨殺、残る10数名の男女従業員・宿泊客に対して金品を強奪した後、全員を麻縄で数珠つなぎにして銃殺場に引き出し、処刑したのであった。

    その凄惨極まる処刑場の情況については、当時だれ1人これを知るものもなかったが、当日近水楼に泊まり合わせた同盟通信特派員・安藤利男氏が命がけで銃殺場から脱走し、北京にたどり着いた結果、世界はその実相を知ったのであった。

    安藤氏の手記は「続対支回顧録」に、体験談は寺平前掲書に収録されている。

    安藤氏の体験記は「通州の日本人大虐殺」として「文藝春秋」昭和30年8月号に掲載され、その後「文藝春秋にみる昭和史」第1巻(昭和63(1988)年1月)にも転載されたが、それには、いかにも戦後のものらしい解釈がつけ加えられている。

    支那駐屯歩兵第2連隊小隊長として7月30日、連隊主力と共に救援に赴(おもむ)いた桜井文雄証人によれば、「守備隊の東門を出ると、ほとんど数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわっており、一同悲憤の極みに達した。

    「日本人はいないか?」と連呼しながら各戸毎に調査していくと、鼻に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等の死体がそこここの埃箱(ゴミばこ)の中や壕(ごう)の中から続々出てきた。

    ある飲食店では一家ことごとく首と両手を切断され惨殺されていた。婦人という婦人は14、5歳以上はことごとく強姦されており、全く見るに忍びなかった。

    旭軒では7、8名の女は全部裸体にされ強姦刺殺されており、陰部に箒(ほうき)を押し込んである者、口中に土砂をつめてある者、腹を縦に断ち割ってある者など、見るに耐えなかった。

    東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせてそれに8番鉄線を貫き通し、一家6人数珠つなぎにして引き回された形跡歴然たる死体があった。池の水は血で赤く染まっていたのを目撃した」

    実に悪鬼も目をそむける酷(むご)たらしい淫虐(いんぎゃく)の情景が次々と証言されて行った。それは正しく悪獣も及ばぬ極悪無道の所業であった。

    (注)お決まりの虐殺方式 上の東京裁判証言に明らかな如(ごと)く、通州事件でも、頭部切り落とし、眼球抉(えぐ)り取り、胸腹部断ち割り、内臓引き出し、陰部突刺など支那軍特有の猟奇的虐殺が日本人に対して行われている。日清戦争以来、お決まりの惨殺パターンと言ってよい。

    惨!通州事件
    http://www.history.gr.jp/~showa/tushu.html

    =================================
    【田母神講演会】 日中戦争前の中国 (コミンテルンの陰謀)
     [日本は支那共産党軍の被害者であった]
    http://www.youtube.com/watch?v=bzzBP-ouSQ0

    NIPPONDANE さんが 2009/10/22 にアップロード


    ◎参考URL:
    東アジア黙示録 [通州事件の捜査ファイル…封殺された虐殺70周年]
    http://dogma.at.webry.info/200708/article_3.html
    ねずさんの ひとりごと[通州事件から学ぶべきこと]
    http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1962.html
    ねずきちの ひとりごと [通州事件・・・「友愛精神」が招いた惨劇]
    http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-535.html
    ねずきちの ひとりごと [【拡散希望】通州事件を忘れるな(2)]
    http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1025.html

    徳島の保守『通州事件の惨劇 (Sさんの体験談)−日本人皆殺しの地獄絵−』 URL一覧
    其の一
    http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100730/p1
    其の二
    http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100816/p1
    其の三
    http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100901/p1
    其の四
    http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100915/p1
    其の五
    http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100929/p1

    『大東亜戦争への道』 中村粲著「惨!通州事件」 http://www.history.gr.jp/~showa/tushu.html
    消された「通州事件」
    http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/tushujiken.htm
    惨たるかな通州事件
    http://www.geocities.jp/showahistory/history02/12e.html

    正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現 [7月29日は通州事件の日] http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/34809150.html
    廊坊事件・通州事件
    http://ww1.m78.com/sinojapanesewar/sinojapanese%20war.html
    さいなん事件の真実
    http://ww1.m78.com/sinojapanesewar/sinojapanese%20war.html

    ◎Link:
    間違った歴史認識を正せ 田母神俊雄 http://ochimusya.at.webry.info/201109/article_19.html
    朝日新聞が報道した「日韓併合」の真実 http://ochimusya.at.webry.info/201109/article_15.html
    日本人が朝鮮人にした恐ろしい事
    http://ochimusya.at.webry.info/201109/article_13.html

    尾崎秀実とスターリンの謀略
    http://ochimusya.at.webry.info/201108/article_6.html
    日本がアジアに残した功績
    http://ochimusya.at.webry.info/201106/article_11.html
    正しい歴史 凛として愛
    http://ochimusya.at.webry.info/201010/article_12.html

    日本には侵略戦争はない
    http://ochimusya.at.webry.info/201005/article_7.html
    ブログテーマ 「日本人が知らない シリーズ」 http://ochimusya.at.webry.info/theme/57295fd580.html


    ここまで**


    マスコミや学校が伝えなければ、私たちで語り伝えていきましょう!
    そのためにも、まずは「知る」ことが大切だと思います。




      

    韓国人による日本人強姦虐殺の真実が書かれた名著【竹林はるか遠く―日本人少女ヨーコの戦争体験記】ついに日本語版発売へ〜この本の存在を多くの日本人や外国人に伝えましょう

    未来に語り継ぎたい日本の歴史 comments(2) trackbacks(0) まったけの嫁
    JUGEMテーマ:歴史認識について

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    竹林はるか遠く―日本人少女ヨーコの戦争体験記
    出版社: ハート出版
    価格:¥ 1,575
    発売日: 2013/6/28
    こちらから予約申込できます
    ◎内容紹介
    1986年にアメリカで刊行後、数々の賞を受賞。中学校の教材として採択された感動秘話。邦訳が熱望されていた名著、待望の日本語版

    大戦末期のある夜、小学生の擁子(ようこ・11歳)は「ソ連軍がやってくる」とたたき起こされ、母と姉・好(こう・16歳)との決死の朝鮮半島逃避行が始まる。欠乏する食糧、同胞が倒れゆく中、抗日パルチザンの執拗な追跡や容赦ない襲撃、民間人の心ない暴行もかいくぐり、祖国日本をめざす。

    終戦前後の朝鮮半島と日本で、日本人引き揚げ者が味わった壮絶な体験を赤裸々に綴る、息もつけぬ、愛と涙のサバイバルストーリー

    ◎著者について
    【著者・監訳者】ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ(Yoko Kawashima
    Watkins)

    1933(昭和8)年、青森で生まれる。生後六ヶ月で南満州鉄道(満鉄)に勤務する父に連れられ、家族で朝鮮北部の羅南(現在の北朝鮮・咸鏡北道清津市)に移住。
    1945(昭和20)年、敗戦最中に母、姉とともに羅南を脱出、朝鮮半島を縦断する決死の体験を経て、日本へと引き揚げた。帰国後、京都市内の女学校に入学。働きながら学問に励み卒業すると、京都大学で英文学を学ぶ。卒業後、米軍基地で通訳として勤務していたが、結婚し渡米。アメリカの子供たちに日本文化を伝える活動をしていた。

    1986(昭和61)年に自身の体験を描いた初の著書である本書『So Far from the Bamboo Grove』を刊行。米国教育課程の副読本として採用され、多くの子供たちに親しまれている。

    1998(平成10)年にボストン図書館が最も推奨する児童文学者(Literary Lights for Children)に選ばれ、アメリカの平和団体・ピース・アビー(平和のための修道の家)より、ガンジーやマザー・テレサ、ダライ・ラマも受けたという「The Courage of ConscienceAward」をはじめ、数々の賞を受賞
     
    現在も、講演活動などで全米だけでなく世界各国をめぐる多忙な日々を送っている。
    他の著書として本書の続編にあたる『My Brother, My Sister, and I』がある。

    【訳者】都竹 恵子(つづく けいこ)
    1952年福島県いわき市生まれ。結婚後、現在まで愛知県春日井市在住。都竹学習塾 塾長。佛教大学通信教育課程 文学部英米学科2010年入学 現在4回生。


    この本について「もっと詳しく」知ってください。最後までみてくださいね!
     ↓
    以下、「あじあにゅーす2ちゃんねる」 より

    戦後、朝鮮半島引揚げ時に起きた韓国人による日本人女性強姦虐殺、日本帰国後の実話を聞いてください。

    698: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/06/05(水) 23:31:54.78 ID:7ToAr2Ol0

    【重要】韓国人による日本人強姦虐殺の真実が書かれた名著
    「竹林はるか遠く」
    ついに日本語版発売へ!!!!

    現在アマゾン本ランキング3位!!!!!!!!!!
    http://www.amazon.co.jp/dp/4892959219/

    ライタイハン事件や名著「竹林はるか遠く」が一気に広がり始めてます!
    私達も頑張って広めましょう!!


    730: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/06/06(木) 00:34:00.42 ID:UkrjIhuo0


    >>698
    日本人こそ読むべきだね、ポチッた


    738: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/06/06(木) 01:07:21.86 ID:R/AjZ0Q60


    >>698
    アメリカの教科書ではお馴染みなんだっけ…
    日本がそれ読んでないってダメだよね

    ポチったわ


    742: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/06/06(木) 01:32:00.44 ID:soyeXkyl0

    >>738
    教科書じゃなくて副読本だったと思うけど・・・
    まあいずれにしても日本人は知っておくべきだよね


    1: 言論統制? 2013/06/01(土) 15:44:10.66 ID:/bYPimbT0

     大東亜戦争敗戦直後の朝鮮半島ではソ連軍が侵攻するとレイプ被害が多発しましたが、
    もっとも加害者として多かったのは実際には朝鮮人だったという統計があります。

     こうした事実を裏付けるようなある引き揚げ少女の記録「ヨーコ物語」(竹の森遠く)があります。
    amazonで探してみましたが、「So Far from the Bamboo Grove」Yoko Kawashima Watkins 
    英語版だけで和訳はまだありません。

     この「ヨーコ物語」は米国の全州の中学校で副読本として採用されましたが、2006年に在米韓国人が「歴史の歪曲である」と騒ぎ出し、その圧力によって副読本からはずされてしまいました

    日本でも訳了直後に日本での出版翻訳権契約が解約され、出版できなくなりました。背後で半島系の団体、政治家が動いたのでしょう。

     韓国は海上に「李承晩ライン」を勝手にひき、それを口実に日本漁船を拿捕し、乗組員を
    抑留しました。その数2,791人。抑留は長い人で3年におよび、奴隷的状況にありました。

     朝鮮人の残虐さはベトナムに持ち込まれました。
    1965年(昭和40年)〜1973年(昭和48年)にベトナム戦争で韓国軍が派遣されています。
    韓国軍は理由なき無差別殺人を繰り広げました。
    立ち退きを拒否したベトナム人住民たちを生きたまま井戸や防空壕に押し込み、手榴弾を投げて殺す。残忍なやり方で女性をレイプしてから殺す。
    「韓国兵にあったら死にあったも同然だ」とも言われました。

    http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/20100715/1279144854


    参考動画
    竹林はるか遠く―日本人少女ヨーコの戦争体験記

    http://youtu.be/OvpMNB9dnnY
    ※ニコニコ動画は⇒【ニコニコ動画】竹林はるか遠く―日本人少女ヨーコの戦争体験記


    ヨーコ物語(竹の森遠く)概要1


    http://youtu.be/AaWvvtlsajg
    ニコニコ動画はこちら⇒【ニコニコ動画】ヨーコ物語(竹の森遠く)概要1

    動画概要文より
    祝!日本語版出版!
    出版関係者の皆様、本当にありがとうございます。
    「竹林はるか遠く」を拡散して、国民で日本を守っていきましょう!
    (H25.6.1追記)
    使用許可の確認不要です。ご自由にお使いください。私が作った概要の文章なので著作権­の問題はありません。どんどん拡散して日本を守りましょう!
    参考文献:"SO FAR FROM THE BAMBOO GROVE" YOKO KAWASHIMA WATKINS
    日本人の歴史なのに、日本語版も出されず、反日の某国人の隠蔽工作の件も知られず、工­作の思い通りに日本人の多くが知らないなのは、異常な状況である。
    日本語版の出版をすべき。「朝鮮進駐軍」の歴史も含め、在日の問題を日本の義務教育で­教え、地上波テレビでドラマ放映すべき。
    自分が損をしてでも反日国の間接侵略から日本を守る事が、日本の(日本人の)政治家・­役人・教師・ジャーナリスト・マスコミの仕事だと思う。
    「ヨーコ物語(竹の森遠く)」は、アメリカ全州の中学の副読本だったのが、反日の某国­人の工作で撤廃になったとの事。
    工作され放題の日本は、スパイ防止法を1日も早く制定する必要がある。
    今も続いているGHQの検閲30項目からの脱却が急務である。



    終戦から62年 日韓それぞれの引揚げ01

    http://youtu.be/bDjPZXw0yHg

    動画概要文より
    アップロード日: 2007/12/08
    多くの日本人に見てもらいたい。太平洋戦争後、朝鮮半島から日本人が日本に帰る(引き上げ)時に、多くの日本人女性が­レイプされ、強姦犯の子供を宿しました。福岡県の二日市保養所は、レイプ被害に遭った日本人女性に堕胎手術や性病の治療を行っ­た。当時堕胎は違法行為であったが、厚生省は超法規的措置として黙認した。その病院だけでも数百人の日本人女性が麻酔無しで堕胎手術を受けた。
    続き⇒
    http://youtu.be/aXPoy_5OFxY

    ※ニコニコ動画はこちら⇒【ニコニコ動画】終戦から62年 日韓それぞれの引揚げ01
    動画説明文より
    日本人と朝鮮人のそれぞれの引揚げ。日本人女性。 日本に帰ってみると焼け野原で何もなかった。炭鉱経営で裕福な朝鮮人。 釜山に帰ってみればレイプされてる女性を見て、日本に帰りたいと思った。弁当がニンニク臭いので苛められた。 半島に帰っても苦労した。日本人女性はソ連兵や朝鮮人(番組ではなぜか「現地人」)にレイプされた。
    「終戦から62年 日韓それぞれの引揚げ」02もご覧下さい


    2: 名無しさん@お腹いっぱい。 2013/06/01(土) 15:45:36.96 ID:/bYPimbT0

    朝鮮人による日本引き揚げ民間人強姦大虐殺
    http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1284171137/

    正論 2005年 11月号
    引揚民間人を襲った 朝 鮮 保 安 隊 の略奪・暴行・殺戮の嵐
    (一部抜粋)

    「満州や北朝鮮からの初期の脱出者は悲惨で、今も念頭を去らないいくつかのエピソードがある。

     北朝鮮で農業を営んでいた老夫婦は、年頃の娘二人を連れ、
     辛苦のすえやっと38度線近くの鉄原にたどりついた。
     そこで見たものは、日本人の娘達が次々にまずソ連兵に犯され、
     ついで 朝 鮮 人 の 保 安 隊 に引き渡されて
     さらに散々に辱められたうえ、虐殺されている光景であった。

    「吉州や端川の海岸線にでた人たちに対する
     ソ連兵や朝鮮保安隊の略奪と暴行は、残酷をきわめた。
     夜中に雨戸を蹴破って侵入してきたソ連兵は、17になる娘を父親からひったくるように連行。
     娘は明け方になり無残な姿で、涙もかれはてて幽鬼のごとく帰ってきたという。
     みなソ連兵を 朝 鮮 人 が案内したのだった。
     部落ごとの保安隊の関所では、厳重な身体検査が行われ、金や着物や米などが取り上げられた。
     靴の底や、女の髪のなかから金を探し出すのはふつう。
     一糸まとわぬ姿にされ、取調べられた若い女性もあった。
     城津での惨状は言語に絶した。  
     朝 鮮 人 の 男女が数十人の団体でおしかけ、
     干してある洗濯物から赤児の着物まで剥ぎ取って掠奪され、
     あげくは婦人の“提供”を要求されたという」

     博多港から車で40分ほどの二日市温泉郷につくられたのが、
     二日市保養所である。
     強姦によって妊娠させられた女性たちには、堕胎手術が施された。
     また、性病に感染した女性たちにについても、匿って回復するまで治療が行われた


    7: 名無しさん@お腹いっぱい。 2013/06/01(土) 16:00:43.51 ID:/bYPimbT0

    終戦後、韓国人が日本人を強姦、虐殺

    http://youtu.be/bXvIsIRYAEU
    ニコニコ動画は【ニコニコ動画】終戦後、韓国人が日本人を強姦、虐殺


    8: 名無しさん@お腹いっぱい。 2013/06/01(土) 16:03:49.23 ID:/bYPimbT0

    アメリカでは出版、韓国では出版するも販売禁止、日本では出版されてません


    10: 名無しさん@お腹いっぱい。 2013/06/01(土) 16:17:29.03 ID:/bYPimbT0

    あらすじ [ウィキより]

    カワシマ一家5人は朝鮮半島東北部の町ナナムで、戦時下ではあるが、それなりに平和に暮らしていた。1945年のある日(4月以降)、ヨーコとコウは慰問に訪れた軍病院で、負傷兵マツウラ伍長と知り合う。数週間後、マツウラ伍長はカワシマ家をお礼に訪れ、その後もたびたび訪れ、カワシマ一家と親密となる。この頃、朝鮮半島北部にもB-29が爆撃に時々現れ、また、日本敗北の気配を読み取って、半島内に反日朝鮮人共産主義同盟、朝鮮共産党軍が組織されつつあった

    1945年8月9日深夜、マツウラ伍長がソ連軍が侵攻してくることを一家に伝え、すぐに町を脱出することを勧める。父とヒデヨは不在だったが、ソ連軍は既に近くに迫っており、2人に連絡する時間はもはやなく、書置きを残して、母とヨーコとコウの三人は最低限の荷物と財産を持って、マツウラ伍長の勧めどおり病院列車に乗ってナナムを脱出した。

    列車はその後ソウルまで45マイルの地点で爆撃に遭い、機関車が破壊されたので、三人は列車を降り、徒歩にてソウルを目指す。しかし半島内は既に、ソ連軍と呼応した朝鮮共産党軍によって、日本人は片っ端から虐殺され、日本人の遺体は金歯を抜かれ身ぐるみ剥がされ、日本人の土地家屋財産一切は奪われ、日本人女性は幼女から若い女まで手当たり次第に強姦されるという地獄絵図と化していた


    12: 名無しさん@お腹いっぱい。 2013/06/01(土) 18:35:58.55 ID:Oeuc0IdH0

    ベストセラーにしようずぜ

    14: 名無しさん@お腹いっぱい。 2013/06/01(土) 18:42:57.78 ID:1gxFK02B0

    今の子供は知らない なぜか
    内容よりそれが問題


    380: 大日本帝国陸軍航空隊 桜花五号機 2013/06/03(月) 16:58:42.64 ID:3balZdMM0

    スレ主さん、ご迷惑おかけします。ご勘弁を。
    爆弾投下開始します。

    桜の樹の下 ― 語られなかった引揚の惨禍
    http://www.kanpusaiban.net/kanpu_news/no-50/hirao.htm

    (※戦後責任を問う・関釜裁判を支援する会


    終戦の翌年、1946年の春、日本に帰還していた京城(大韓民国の首都ソウル。日本統治下、朝鮮総督府がおかれた)。日赤の同期の看護師10名が、福岡市の近郊、二日市へ集結した。対馬に帰還していた当時、20歳の村石正子さんも日赤の事務長から連絡を受け、用件も明確には伝えられないまま、二日市に赴いた。そして、桜の蕾が芽吹き、満開となり、やがて葉桜となる3月から5月までの3ヶ月間、二日市保養所でその勤務にあたった。

    二日市保養所は、引揚者の救済活動をしていた在外同胞援護会救療部によって、戦時中の愛国婦人会保養所の建物を利用し、1946年3月に開設された。引揚の混乱の中で暴行を受け、妊娠した女性の中絶や性病の治療等に約1年半にわたって携った。

    2005年9月末、私は、筑紫野の女性グループならびに『関釜裁判を支援する会』事務局のメンバーと一緒に、二日市保養所に看護師として勤務した経験をもつ村石正子さんからお話を聞く機会を得た。

    二日市は、古い温泉街しかない寂しい場所だったと村石さんは、当時を回想する。人目につかぬよう、鄙びた温泉地の奥にその場所は、選定されたのであろう。

    朝鮮半島や中国東北部に取り残された日本人居留民の引揚救護活動を行なうべく、旧京城帝大医学部関係者によって戦後すぐに設立されたソウルの「罹災者病院」や朝鮮各地を廻った「移動医療局」の活動は、文化人類学者・泉靖一氏の巧みな手腕によって「在外同胞援護会救療部」へと組織化され、旧厚生省の援助をも引き出し、様々な引揚救護活動に従事することになった。保養所の設置には、旧京城帝国大学医学部の関係者が関与していたためか、開設の当初、村石さんら京城日赤の看護師が召集を受けた。日赤で1年、上の上級生が班長となった。



    381: 可愛い奥様 2013/06/03(月) 17:00:08.77 ID:3balZdMM0


    村石さんと同様に他の看護師たちも自分たちが何故この地に呼ばれたのか、はっきりとした職務を告げられた者はいなかった。〈不法妊娠〉が云々ということは聞いたが、それが具体的に何を意味しているのかわからなかったという。

    保養所の2階に部屋をあてがわれ、そこでの生活が始まった。建物は老朽化した2階家で、1階の1室が、手術室として使用された。そこは以前、風呂場であったのか、床がタイル張りで手術台が1台置かれていたという。棚には脱脂綿やガーゼ等、最小限の医療用具しか準備されていなかった。

    大陸からの引揚港博多からトラックに乗せられ、運ばれてくる女性たちの姿を見て、村石さんは、事の次第を理解した。

    異形の者…彼女たちの様相を現わす言葉は、他に見出せなかった。

    一見したところ男女の区別すらつかず、短く刈った頭を風呂敷で巻き、汚れ痩せ果ておなかだけ膨れた女性たちが、次々と保養所に運ばれてきた。引揚の途上での暴行を避けるため、女たちは一様に髪を短く刈り込んでいたが、膨らんだおなかを見れば、それもまったく無駄であったことがわかり、痛々しさは、いや増すばかりだった。

    戦争の周縁では、どの時代、どの地域であっても例外なく必ず性暴力の被害が生じる。この世で最も忌むべき戦争と戦時性暴力は、お互いが癒着し、蛇のように絡まりあい、切っても切り離すことなどできない。

    更にこのような状況下でも生身の女性の体は受胎し、加害男性の子を宿してしまう。人間という個体の生殖の営みが、これ程、哀しく不条理なものであると感じられることはない。

    凄絶な体験を経て、一種の精神的な虚脱状態にあったためか、女性たちは概して無言のままだったという。迎えた人々も掛ける言葉も見当たらなかった。まず、「お風呂に入りましょうか。」と入浴をすすめ、衣服の着替えを用意し、2〜3日休養してもらう手順だった。旧厚生省から食料だけは、豊富に支給されていた。手術は、医薬品不足のため、無麻酔で行なわれた。精神と肉体に凄まじい傷を負い、言葉を半ば喪失していた女性たちは、激痛にも一様に黙々と耐えたという。



    384: 可愛い奥様 2013/06/03(月) 17:01:22.57 ID:3balZdMM0

    妊娠7ヶ月になる女性の手術に村石さんは、偶然、居合わせたために立ち会うことになる。7ヶ月になるとお産と一緒のため、ドクターの他に助産婦1人も手術に駆り出された。

    生まれ出た嬰児は、7ヶ月とは思えないくらい大きく、赤い髪と白い肌を持った美しい女の赤ちゃんだったという。ロシア人との混血なのか色白で端正な顔立ちを村石さんは、60年後の今も不思議に忘れることはできない。

    女性は、自らが産み落とした子どもの産声を聞くと反射的に乳房が張ってくる。母親としての感情も自ずと生起してくる。そのため、産声を聞かせまいと嬰児は、すぐ首を絞められ、窒息させる手筈になっていた。更に医師が頭にメスを入れる。声を挙げることもなく、無辜の命は暗闇の中へ押し戻される。

    しかし、その折だけは違っていた。お昼の食事を済ました後、手術室の前を通りかかると、どこからか猫の鳴き声のようなものが聞こえてきた。手術室を覗くと、頭にメスが立てられたまま、それでも絶命することなく赤ちゃんが泣いていたという。村石さんは気が動転し、慌てて「先生、先生!」と手術した医師を引き戻した。

    再び窒息させられた嬰児は、もう二度とこの世に声を発することはなかった。

    村石さんは、この折の記憶だけは他の同僚にも長年、語ることはできなかったという。

    多くの嬰児の遺骸がどのように処理されたのか、はっきりとしたことは不明である。



    387: 可愛い奥様 2013/06/03(月) 17:03:10.48 ID:3balZdMM0


    一部はホルマリン漬けにされ、大学病院へ引き渡されたとか、保養所の敷地に埋められたという証言がある。
    (『証言・二日市保養所』引揚げ港・博多を考える集い編、
                 『沈黙の40年』武田繁太郎、『水子の譜』上坪隆)

    しかし、村石さんは、一度病院の廊下から嬰児の遺骸を埋めている様子を目撃した。保養所の雑用をしていた年配の男性が、桜の樹の下に埋めていた。その人は、どういう関係になるのか小さな子どもも含め、家族で保養所に住み込んでいたという。

    無心に作業する老人の傍らには、薄紅色の蕾を膨らませ、満開に咲き競い、やがて散りゆく桜の樹が控えていた。

    終戦から約半年が過ぎた1946年春のことである。文字通り桜の樹の下には、小さき屍が無数に埋まっていた。

    かつて、来る日も来る日も堕胎された嬰児の遺骸を土中に埋める作業を繰り返していた初老の男性がいた。黙々と、春の柔らかい日差しを受けながら桜の根元の土を掘り、埋葬していったのだ。

    この人は何を思い、土を掘り返していたのだろう…あるいは敢えてもの思うことは、回避していたのだろうか。

    こうして戦争が終わるたびに誰かが、埋葬のため土を掘り返してこなければならなかった。その営為は、過去から現在まで綿々と繰り返されている。

    引揚途上で、日本人の女性が蒙った惨禍については、周知の事実として広く知られている。

    しかし、ここでも戦争だった。仕様がなかったことなのだ…という戦争に纏わる諦念が支配し、 被害女性の苦悩の実相は、固く封印されてきた。まして、始末された嬰児たちが何ゆえに生を享け、何ゆえに光を見ることなく闇に引き戻されなければならなかったのか。−《戦争》という1文字に塗りつぶされ、誰もその核心に触れることなどできない。



    388: 可愛い奥様 2013/06/03(月) 17:04:45.05 ID:3balZdMM0


    保養所創設に関わった旧京城帝国大学関係者は、自殺や精神障害が相次ぐ被害女性の惨状を見るにみかね、当時、堕胎は違法であったにも関わらず、保養所開設に踏み切った。後ろ盾となる大学も失い、ある意味、自由な立場で事態に向き合おうとした。

    しかし、旧厚生省の立場は、相違した。「水際作戦」と称し、大陸から引揚げてくる女性たちを港で隈なく検査し、異民族の血の流入を水際で食止め、性病の蔓延を予防するモそのような意図を持って、傷ついた女性たちを遇していた。《民族浄化》という概念は、人間の生、性、死―人間の存在そのものを凌辱していく。二日市保養所とは別に旧厚生省は、九州大学や佐賀の中原療養所など強制堕胎施設を設けていた。

    敗戦、そして、その後の混乱が必至であったにも関わらず、国家は民間人の保護など最初から眼中になかった。それどころか被害にあった女性を忌まわしいものでも見るように白眼視し、文字通り水際で処理していったのだ。

    嬰児の命は、厳密なまでに無辜である…それゆえ、なおさら自らが招き寄せた敗戦の実相を眼前に厳然と突きつけられるのを回避するべくその存在を抹殺した国家やその背後に在る共同体の無言の思惑は、白日の元で究明されなければならなかったのではないか。

    当然の成行だろうが、外からもたらされた戦争の終結は、国家にしろ民衆にしろ、表層は塗り変えられても潜在する意識に変化はもたらされなかった。

    保養所を出た後、女性たちは、生涯にわたる沈黙の封印を心に課し、なんら変わることのなかったこの社会に戻っていかなければならなかった。自分たちが無感覚、無抵抗に享受した植民地支配、侵略戦争の帰結が、女性たちに具体的にどのような惨禍をもたらしたのか正視することもない社会に。

    被害女性の沈黙は、戦後60年を経ても解かれていない。

    村石さんは、この診療所で1人の女性に出会った。穏やかで優しい表情のひとだったという。

    ここに運ばれてきた女性たちの多くが、精神と肉体に凄絶な傷を負い、口数も少なく虚無的なまなざしをしていたなかで、にこやかで笑みを絶やさなかったひとの面影は、心に深い印象を残した。



    389: 可愛い奥様 2013/06/03(月) 17:06:05.73 ID:3balZdMM0


    この女性は、性病の治療のため、入所していた。梅毒の3期で粘膜まで損傷し、唇も割れ、皮膚の表面から膿が出ている状態だった。治療といってもまだ当時、抗生剤などなく、毎日、洗浄を行なうばかりだったという。病気のため、髪は既に抜け落ち、坊主頭に布をターバンのように巻きつけていた。入所している他の女性たちも中絶の手術後、しばらく休養すると顔もふっくらとしてきて、看護師が髪を結ってあげたり、化粧品を貸したりすることもあったという。

    しかし、どの女性に対しても本名、年齢、出身地など尋ねることはなかった。また、聞く必要もなかった。村石さんは、このひとにも、もちろん聞いていない。当時、20歳であった村石さんより明らかに年長に見えたという。

    ただ、この女性の場合、話の端々から親に身売りされ、国内の遊郭で売春に従事後、外地に行ったら借金も減り、賃金が高くなるという業者の甘言を信じ、大陸に渡り、日本軍の「慰安婦」として狩り出された経歴が自ずと偲ばれたという。

    談話室であや取りに興じたり、他愛のない話をするのだが、辛い過去が表情を曇らせることなどなく、小太りの顔は、いつもにこにこと優しく笑っていたという。あるいは、梅毒が既に脳症にまで進行していたのかもしれない。この世のあらゆるものから背かれ、痛めつけられてきても誰を恨むことなく、なお優しく柔和な表情であった。

    このひとは、保養所にいた時、ひょっとしたら生まれて初めて、穏やかな誰にも苛まれることのない日々の幸福を噛みしめていたのかもしれない。なぶりものにされず、殴られず、痛めつけられもせず…この世で初めて取り戻した肉体の自由だったのではないだろうか。

    たとえ、忌まわしい病魔に苛まれていてもその表情はもの柔らかく、曇ることはなかったという。



    390: 可愛い奥様 2013/06/03(月) 17:06:48.51 ID:3balZdMM0

    2005年の暮れ、木枯らしの吹く寒い日、私は、その地を訪ねてみた。

    保養所の跡地には、今、特別養護老人ホームむさし苑、筑紫野市在宅介護支援センター、デイサービスセンター、訪問看護ステーションの施設が集積して建っており、1部は、済生会二日市病院の駐車場となっている。そっとガラス越しに建物の内部に眼を遣ると高齢の男女が、ゆっくりとした動作で機能訓練をしていた。

    隣りのマンションとの境界近く、敷地の隅の緑陰のなかに二日市保養所の関係者を顕彰して、児島敬三氏により1981年に建立された「仁の碑」、そして1999年3月20日に旧京城帝国大学創立705周年記念として植樹された1本の欅の樹が残されている。

    さらに数本の木立に囲まれ、敷地の奥まった位置には端正な面立ちの地蔵尊が、おさな子をかき抱き、ひっそりと安置してある。母子像の前に立ててあるろうそくに火を灯してみた。風があるためか、小さな焔と共に整った母子の横顔がゆらゆらと揺れて、私の眼には映った。



    392: 大日本帝国陸軍航空隊 桜花五号機 2013/06/03(月) 17:09:10.93 ID:3balZdMM0


    爆弾投下続行します。

    戦後の日本人引き揚げ時の真実は、
    語り継いでいかなければならないと思います。

    繰り返しますが、
    日本人と一緒に戦争していた朝鮮人は、
    日本が敗戦すると知ると手のひらを返して日本人に対して、
    略奪・強姦・虐殺などあらゆる暴虐の限りをしたのです。

    ソ連の裏切り・火事場度泥棒強盗殺人犯罪に絡んで日本人引き揚げ時の
    朝鮮半島での悲惨な史実〜朝鮮人の犯罪です。


    再び、歴史さんのページからの引用です。とても勉強になります。

    そもそも朝鮮は、朝鮮側からの要望もあり日本統治され、発展し、朝鮮人の寿命が伸びた事実があります。
    戦時中は、共に戦いましたが、日本が負けた事を知るとソ連の戦争参入に便乗して日本人を虐殺したり、日本人女性が強姦されたりした事は、紛れもない史実です



    394: 可愛い奥様 2013/06/03(月) 17:11:08.78 ID:3balZdMM0


    台湾 にいた日本人は、台湾人と涙ながらに別れて引き揚げて来ました。
    しかし、朝鮮半島からは、「命からがら」逃げて来たのです。


    終戦1週間前の1945年8月8日、ソ連が日ソ中立条約 を破って対日宣戦を布告して満州と朝鮮に侵攻して来ました。窓も門も開け放しのまま去った日本人の空き住宅、商店、倉庫等にアリのように人間が群がった。
    家財、衣類、食器、装飾物、楽器、娯楽品、靴、傘、書籍、自転車、あらゆるものをかっさらい運び出すのに忙しかった。町全体が怒鳴り合い、奪い合い、誰もが目を皿のようにして走っていた。ある人はトランクを担いで逃げる。
    皆走る、ぶつかる、ののしる、宝物を求めて、より大きい高級住宅に入る。
    引揚げの惨事は北朝鮮 だけに起こったのではない。
    南朝鮮(韓国 )においても、日本人に対し朝鮮人はあらゆる悪事を働いた。
    北と南に民族性の違いはないのである。同じ朝鮮人、当然でしょう。

      ・・・「朝鮮戦争 の真実 -元人民軍工兵将校の手記-」朱栄福著

    北朝鮮で農業を営んでいた老夫婦は、年頃の娘二人を連れ、辛苦のすえやっと38度線近くの鉄原にたどりついた。
    そこで見たものは、日本人の娘が次々にまずソ連兵に犯され、ついで、韓国の保安部隊に引き渡されて、更に散散にいじめられたうえ、虐殺される光景であった。


    朝鮮保安部隊の略奪と暴行は、残虐を極めた。
    夜中に雨戸を蹴破って侵入してきたソ連兵は、17 になる娘を父親からひったくるように連行。
    娘は明け方になり無残な姿で、涙もかれはてて幽鬼のごとく帰ってきたという。
    皆、ソ連兵を韓国人が案内したのだった。
    部落ごとの保安隊の関所では、厳重な身体検査が行われ、金や着物や米などが取り上げられた。一糸まとわぬ姿にされ、取調べられた若い女性もあった。
    城津での惨状は言語に絶した。韓国 人の男女が数十名の団体で押しかけ、干してある洗濯物から赤児の着物まで剥ぎ取って掠奪され、あげくは婦人の「提供」を要求した。

    ・・・正論 2005 年 11 月号 引揚民間人を襲った略奪・暴行・殺戮の嵐



    396: 可愛い奥様 2013/06/03(月) 17:13:09.10 ID:3balZdMM0


    日本敗戦後一年が過ぎても北朝鮮 内の日本人の移動は禁じられていた。
    筆者のグループは賄賂を使ってトラックを雇い南朝鮮への脱出を決行する事になった。
    昭和21年9月中旬、朝鮮警察のトラックを使用する。
    料金は一人千円ということで、赤ん坊も含めて、私は六千円を支払った。
    市辺里で全員トラックから下ろされ、後は徒歩になったのだが、牛車が2台待っていて使用を強制され、荷物を載せて身軽で歩いた。
    牛車代は多額が要求され、次の部落では次の牛車に載せ替えられてまた金を巻き上げられる。山の中腹に煙が見えた。
    そこはチゲ部隊の交替地であった。もうこの頃には、醵出する金は無くなっていたが、物でもいいと言われ、せっかく、わざわざここまで運んできた物を大部分取上げられてしまう。稜線まできたチゲ部隊に、「こんな少しばかりで、お前ら、日本へ帰れると思うのか。もっと出せ出せ!!」と威かくされ、残りの物まで投げ出し、疲労困憊の老幼男女は、狂気のようにこの38度線の山稜を駆け下る。

    ・・・生きて祖国へ5 死の三十八度線  引揚体験集編集委員会編
     


    397: 可愛い奥様 2013/06/03(月) 17:13:57.99 ID:3balZdMM0


    文坪の町も日に日に治安が悪くなっていた。
    しばらく鳴りを潜めていた朝鮮過激分子の跳梁が始まってきた。
    元山でも朝鮮人が暴徒と化して、日本人経営の店や住宅にまで押しかけて暴行、略奪を始めたという噂が入ってきた。
    ソ連兵は保安隊員の先導で日本人の住宅地区にやってきて、家中を物色し、ありとあらゆる家財道具を略奪し始めた。
    その内のめぼしい物がなくなってくると今度は、「女!女!」と言って若い女性を連れ出すようになってきた。私達若い女性は、頭髪をぷっつり切り落とし丸坊主になり、貧しい男の子のように薄汚れた服を着るようにした。
    ソ連兵や保安隊員が来ると、いち早く床下に隠れたり、前もって準備して掘った穴に身を潜めた。

    ・・・私の三十八度線突破記録  梶山緑

    北鮮に入って来たソ連軍は、満州におけると同様、略奪、放火、殺人、暴行、強姦をほしいままにし、在留日本人は一瞬にして奈落の底に投じられる事になった。
    白昼、妻は夫の前で犯され、泣き叫ぶセーラー服の女学生はソ連軍のトラックで集団的にら致された。反抗したもの、暴行を阻止しようとした者は容赦なく射殺された。
    ソ連兵に触発された朝鮮人の暴行も多かった。
    富坪の避難民3000名中、その半数が死亡した。
    一日も早く引揚げさせてくれという要望はソ連軍当局によって無視され、日本人はただただ餓死を待つよりほかない状況に追い込まれた。
    在留日本人社会では「38度線さえ越えれば」というのが唯一の悲願となった。
    やせこけた身体に乞食のようなボロ をまとい、山を越え谷を歩き強盗にささやかな所持品を奪われ、歩哨の銃弾に倒れ、人々は南に辿り着いた。

    ・・・「韓国 ・朝鮮と日本人」 若槻泰雄



    403: 大日本帝国陸軍航空隊 桜花五号機 2013/06/03(月) 17:22:49.48 ID:3balZdMM0


    爆弾投下続行します。

    悪夢のような数日の怒りがこみ上げてくるのであろう、「畜生、ロスケのやつ」
    「山賊朝鮮人め!」髪を振るわして、朝鮮人の顔役がズラリ顔をそろえてやって来て、打つ、蹴る、殴るの「見せしめ」が始まる。
    この日も悪い奴がやって来た! と思ったが、炊事当番の人々が知らぬ顔をしていると、「負けたくせに生意気だ」と食って掛かって来た。
    あまりの雑言にきっと目をすえると、「これでも食え!」と言いざま、足もとの土砂をすくって、パッと味噌汁の鍋にたたきこんで逃げていった。久しぶりのご馳走というので、窓、窓には笑顔が並んでいたが、この光景に、窓の表情はたちまち青ざめた憤りに変わった。
    今日もまた「命令」と称して朝鮮人のトラックが乗りつけて来た。
    カーキー色のものは服といわず靴といわず、一物も余さずかっさらって行く。
    これらは軍需品だから没収するというのである。
    これから寒さに向かうというのにシャツ1枚でも無駄にはできない、その貴重品をトラックに山積みにして今日も引揚げていく。



    407: 可愛い奥様 2013/06/03(月) 17:24:58.21 ID:3balZdMM0


    避難の人々は、最後の1枚を没収されないためにチエを絞り出した。
    明日もまた現れるであろう没収団の為、有り合わせの染料で他の色に染め変えてしまった。その翌日、朝鮮側の命令は例のとおりやってきた。

    一同は一夜で変わった黒や青色の服で列を作ったが、予想に反して今度は服装には目もくれず、意外な命令が言い渡された。
    「今度は一切の所持金を提出しなければならない。もし、この命に違反し、一銭といえども所持していることが後で分った場合は銃殺される。では、本日ただちに提出するように」有無を言わせない強制処置である。

    今後何か月かかるか分らない長い苦難を前に、金こそは命の綱である。
    その命の綱を一銭残らず供出したら――今までに子供がおなかをすかせれば芋の一つも買ってやれたのに、無一文は死の宣告も同然である。
    しかし、銃殺で脅かされた一同は、泣く泣く最後の一銭までも提出してしまった。
    その夜、カユをすすった避難民一同は絶望の中に寝られぬ夜明けを迎えた。
    その朝も、恐怖の的である命令が来た。
    1日1日この命令で心臓を締め付けられてきた一同は、伝令の姿が現れると、もうそれだけで体が震え出した。「命令」冷厳な、その命令は疎開本部代表に針のような鋭さで伝達された。
    「17歳以上、50歳までの男子は、ひとり残らず軽装で集合せよ」
    十分の猶予が与えられて男子は校庭に集合した。
    この部隊はそのまま朝鮮保安署に連行された。

    残された婦人たちは「いつもの使役だとよいが…」と冷たい雨の中を去っていく男子部隊をいつまでもいつまでも見送っていた。
    この雨中の別れが、長い長い別れとなった。
    この男子部隊はその夜、移駐を命じられ、遠くシベリア送りとなったのである。

    ・・・「大東亜戦史 8 朝鮮編」池田佑編 富士書苑



    408: 可愛い奥様 2013/06/03(月) 17:26:40.06 ID:3balZdMM0


    戦後の日本人引き揚げ時の真実は、
    語り継いでいかなければならないと思います。

    繰り返しますが、
    日本人と一緒に戦争していた朝鮮人は、
    日本が敗戦すると知ると手のひらを返して日本人に対して、
    略奪・強姦・虐殺などあらゆる暴虐の限りを犯したのです。

    陸海空と英霊たちが命をかけて守ろうとした家族・祖国日本ですが、敗戦と同時に
    生き残った人たちも死ぬのと勝るとも劣らない苦しみ〜一瞬にして死ぬのでなく
    長く続く精神的・肉体的苦痛は、まさに「生き地獄」に落とされたのです。


    二度とこの様な事にならない為には、戦争をしない事は勿論ですが、
    戦争を起こさせない事です。

    戦争は、水が低きに流れるのと同じように、(軍事)力が弱い所に(軍事)力が作用して起こります。明確に言えば、支那が尖閣列島に触手を伸ばせば、日本・支那間で戦争が起こりうるのです。そうしない為には、相手が手を出せない様に、手を出せば大火傷をする・唯では済まないような準備する事しかありません

    やくざは、警察力相手に喧嘩はしません。強い相手には喧嘩は仕掛けないのと同じです。

    支那も米国 には手を出しません。日本がこのまま何もせずにいれば支那は確実に尖閣列島に手を出します。そうしない為には、日本は、「支那に手を出させない様に」軍備力を充実させる事を早急に・確実に実施すべきです。



    411: 可愛い奥様 2013/06/03(月) 17:29:32.00 ID:3balZdMM0


    麻酔なしの中絶手術

    特別養護老人ホームわきの水子地蔵の前で、
    今年5月14日に行われた
    「水子供養祭」(福岡県筑紫野市で)
     ◆恨みと怒りの声、手術室に響く

    引き揚げ先の博多港から「二日市保養所」(福岡県筑紫野市)に到着した女性たちは、数日間の休養の後、手術室に通された。
    麻酔はない。手術台に横たわると、目隠しをしただけで手術が始まった。
    医師が、長いはさみのような器具を体内に挿入して胎児をつかみ出す。

    「生身をこそげ取るわけだから、それはそれは、痛かったでしょう」。
    看護師として手術に立ち会った村石正子さん(80)(同)は、硬い表情で思い返す。
    ほとんどの女性は、歯を食いしばり、村石さんの手をつぶれそうなほど強く握りしめて激痛に耐えたが、1人だけ叫び声を上げた。「ちくしょう」??。手術室に響いたのは、痛みを訴えるものではなく、恨みと怒りがない交ぜになった声だった。

    おなかが大きくなっている女性には、陣痛促進剤を飲ませて早産させた。
    「泣き声を聞かせると母性本能が出てしまう」と、母体から出てきたところで頭をはさみのような器具でつぶし、声を上げさせなかった。

    幾多の手術に立ち会った村石さんには、忘れられない“事件”がある。
    陣痛促進剤を飲んで分べん室にいた女性が、急に産気づいた。
    食事に行く途中だった村石さんが駆けつけ、声を上げさせないために首を手で絞めながら女児を膿盆(のうぼん)に受けた。
    白い肌に赤い髪、長い指??。ソ連(当時)の兵隊の子供だと一目でわかった。
    医師が頭頂部にメスを突き立て、膿盆ごと分べん室の隅に置いた。



    413: 可愛い奥様 2013/06/03(月) 17:30:47.46 ID:3balZdMM0


    食事を終えて廊下を歩いていると、「ファー、ファー」という声が聞こえた。
    「ネコが鳴いているのかな」と思ったが、はっと思い当たった。
    分べん室のドアを開けると、メスが突き刺さったままの女児が、膿盆のなかで弱々しい泣き声をあげていた。
    村石さんに呼ばれた医師は息をのみ、もう一本頭頂部にメスを突き立てた。
    女児の息が止まった。

    死亡した胎児の処理は、看護師のなかで最も若かった
    吉田はる代さん(78)(埼玉県川口市)らの仕事だった。
    手術が終わると、庭の深い穴に落とし、薄く土をかぶせた。

    手術を終えた女性は2階の大部屋で布団を並べ、体を休めた。
     会話もなく、横になっているだけ。
    大半は目をつぶったままで、吉田さんは「自分の姿を見られたくなかったから、ほかの人も見ないようにしていたのでしょう」と振り返る。



    415: 大日本帝国陸軍航空隊 桜花五号機 2013/06/03(月) 17:34:51.43 ID:3balZdMM0

    女性たちは1週間ほどで退院していった。村石さんは「これから幸せになって」と願いを込めながら、薄く口紅を引いて送り出した。中絶手術や陣痛促進剤による早産をした女性は、400?500人にのぼると見られる。

    1947年7月に設立された済生会二日市病院は、二日市保養所の建物の一部共同で使用していた。設立当初の同病院に勤務していた島松圭輔さん(89)(筑紫野市)は、保養所の医師らと一緒に食事をしたこともあったが、仕事の話は一切出なかった。

    島松さんは、二日市保養所が閉鎖されたのは「47年秋ごろ」と記憶している。
    一緒に食事をしたことがあった医師らのあいさつもなく、「誰もいなくなったな」と感じた時には、約1年半にわたった業務を既に終えていた。

    二日市保養所の跡地に立つ特別養護老人ホームでは毎年5月、水子地蔵の前で水子供養祭が行われている。今年の供養祭では村石さんも静かに手を合わせたが、当時を思い出しながら、むせび泣いた。
    「私はこの手で子供の首を絞めたんです。
     60年前、ここの手術室にいた私の姿は忘れられません……」

    二日市保養所、
    日本人は絶対に忘れはいけません。

    そして朝鮮人から受けた暴行や強姦を
    絶対に忘れてはいけません。


    スレ主さん、ご迷惑をおかけしました。
    以上です。



    455: 忍法帖【Lv=25,xxxPT】(1+0:8) 2013/06/03(月) 18:48:38.68 ID:zqz7kGmQ0


    >>415
    ありがとうございました。
    読むだけでも胸が痛む。

    捏造慰安婦とともに日本人女性の人権侵害問題を拡散します!
    あと、ベトナム戦争での非道も!


    434: 可愛い奥様 2013/06/03(月) 18:17:50.55 ID:Waif3MVx0

    『竹林はるか遠く』
    有志の方でいろんな言語に翻訳して、各国で広めてほしいです。
    VANK(ディスカウントジャパン運動)と同じことをやりましょう。
    ハングル語、中国語はもちろん、フランス語、ドイツ語、スペイン語、
    ロシア語・・・各国で読まれている様子を考えると壮観です。



    743: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/06/06(木) 01:34:32.08 ID:ujMFD8LY0


    これ、政治家にも拡散したほうがいいんじゃないか


    854: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/06/06(木) 11:08:28.29 ID:3ydznUK+O


    売国奴が多過ぎる上に外圧も大きいとなると
    今後も悪いニュースは沢山入ってくるだろうな。

    70年の戦後レジーム脱却への道のりは遠い。

    安倍内閣断固支持と売国議員、売国政策、売国メディアの絶対糾弾を貫くしかない。
    竹林はるか遠くは出来るだけ広める努力をするよ



    ここまで**
    ========

    ちなみに、NHKも、2010年2月17日に、二日市保養所のことを番組でとりあげていたようです。アップされている動画を見たところ(ざっと見ただけなのですが)、朝鮮人による強姦があったことを感じさせる内容は見当たらないような・・・
     ↓
    [証言記録 市民たちの戦争]“引き揚げ”の嵐の中で 
    〜京城帝国大学 医学生の戦争〜吉田 ハルヨさん(京城日赤看護学校)
    http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001110454_00000&seg_number=006


    それから、上記で掲載されている「桜の樹の下 ― 語られなかった引揚の惨禍 」
    のURLは⇒ http://www.kanpusaiban.net/kanpu_news/no-50/hirao.htm なのですが、TOPページを見てみたら「戦後責任を問う・関釜(かんぷ)裁判を支援する会―あやまれ、そして、つぐなえ―」のHPでした・・・。



    【君が代】明治23年出版の『生徒用唱歌』には、3番まで記載されてます

    未来に語り継ぎたい日本の歴史 comments(0) trackbacks(0) まったけの嫁
    JUGEMテーマ:ニュース

    大日本皇國 さんのFacebook で、君が代に3番まであることを知りました v(。-_-。)vブイッ♪

    【君が代】

    現在は1番のみ歌われておりますが、
    明治23年出版の『生徒用唱歌』には、3番まで記載されております




    1番:
    君が代は 
    千代に八千代に 
    さざれ石の 
    巌となりて 
    こけのむすまで


    2番:
    君が代は 
    千ひろの底の 
    さざれ石の 
    うの居(ゐ)る磯と 
    現はるるまで


    3番:
    君が代は 
    千代ともささじ 
    天(あめ)の戸や 
    いづる月日の 
    限りなければ



    私たちは明治時代の尊い精神を継承し、その心を現代に生かすことが肝要であります。

    ============

    ■日本の国歌、君が代(きみがよ)は、明治維新後の1880年(明治13年)に曲がつけられ、以後は国歌として扱われるようになり、1999年(平成11年)に国旗及び国歌に関する法律で正式に国歌に制定されました。

    この国歌のテーマは皇統の永続性であり、歌詞は10世紀に編纂された『古今和歌集』に収録されている短歌の一つです。
    イギリスの日本研究家であるバジル・ホール・チェンバレンはこの日本の国歌を翻訳しています。

    A thousand years of happy life be thine!
    Live on, my Lord, till what are pebbles now,
    By age united, to great rocks shall grow,
    Whose venerable sides the moss doth line.

    汝(なんじ)の治世が幸せな数千年であるように
    われらが主よ、治めつづけたまえ、今は小石であるものが
    時代を経て、あつまりて大いなる岩となり
    神さびたその側面に苔が生(は)える日まで

    君が代−Wikipedia より


    君が代について、もっと詳しくかいてくださっています。ぜひ、この機会にご一読くださいませ(o´▽`o)。
     ↓
    君が代のお話(ねずさんのひとりごと)
    http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1602.html

    国歌「君が代」について
    http://www5a.biglobe.ne.jp/~jisso/


    ■参考:ちなみに、国旗及び国歌に関する法律に反対した議員は、以下の通りです。
    ※選挙も近いのでご参考くださいませ。
     ↓
    選挙前.com より(←オススメ!政治家の思想と実績をまとめてくださっているサイトです)
    ※数字は、「選挙前.com」における評価点で、国益重視(+1)、中立(±0)、国益軽視(-1)の三段階で評価されています。たとえば、安倍首相の評価は⇒+22。なお、名前をクリックすると、Wikipediaに繋がります。

    議院議員
    【民主党】
    郡司彰(ぐんじ あきら)
    茨城 -5
    岡崎トミ子(おかざき とみこ)
    宮城 -18
    輿石東(こしいし あずま)
    山梨 -11
    江田五月(えだ さつき)
    岡山 -10
    小川敏夫(おがわ としお)
    東京 -8
    福山哲郎(ふくやま てつろう)
    京都 -6
    高嶋良充(たかしま よしみつ)
     -6
    小川勝也(おがわ かつや)
    北海道 -6
    原口一博(はらぐち かずひろ)
    茨城 -5
    櫻井充(さくらい みつる)
    宮城 -1
    峰崎直樹(みねざき なおき) -7

    【共産党】
    市田忠義
    (いちだ ただよし) -7
    山下芳生(やました よしき) -6
    【社民党】
    福島瑞穂(ふくしま みずほ) -34
    【無所属】
    筆坂秀世(ふでさか ひでよ) (元共産党) -1

    議院議員
    【民主党】
    近藤昭一(こんどう しょういち)
    愛知3区 -18
    赤松広隆(あかまつ ひろたか)
    愛知5区(東海ブロック) -17
    辻元清美(つじもと きよみ)
    大阪10区 -16
    大畠章宏(おおはた あきひろ)
    茨城5区 -14
    菅直人(かん なおと)
    東京18区 -12
    生方幸夫(うぶかた ゆきお)
    千葉6区 -12
    横路孝弘(よこみち たかひろ)
    北海道1区 -11
    海江田万里(かいえだ ばんり)
    東京1区 -10
    枝野幸男(えだの ゆきお)
    埼玉5区 -7
    前原誠司(まえはら せいじ)
    京都2区 -6
    原口一博(はらぐち かずひろ)
    佐賀1区(九州ブロック 1位) -5

    【日本維新の会】
    小沢鋭仁(おざわ さきひと)
    山梨1区(南関東ブロック 1位)※元民主党 -9

    【共産党】
    笠井亮(かさい あきら)
    東京ブロック 1位 -10
    穀田恵二(こくた けいじ)
    京都1区(近畿ブロック 1位)  -9
    志位和夫(しい かずお)
    南関東ブロック 1位 -9
    宮本岳志(みやもと たけし)
    近畿ブロック 2位 -5
    佐々木憲昭(ささき けんしょう)
    東海ブロック 1位 -4

    【社会民主党】
    照屋寛徳(てるや かんとく)
    沖縄2区 -10

    【その他】
    北橋健治(きたはし けんじ)
    現・北九州市長 福岡 無所属(元民主党) -3
    河村たかし(かわむら たかし)
    現・名古屋市長 愛知 減税 -2
    保坂展人(ほさか のぶと)
    現・世田谷区長 無所属(元社民党) -16

    選し、失業中
     ↓
    【民主党】
    横光克彦(よこみつ かつひこ)
    大分3区(九州ブロック 1位) -10
    簗瀬進(やなせ すすむ)
    栃木 -10
    松本龍(まつもと りゅう)
    福岡1区(九州ブロック 1位) -10
    末松義規(すえまつ よしのり)
    東京19区(東京ブロック) -8
    池田元久(いけだ もとひさ)
    神奈川6区 -4
    桑原豊(くわばら ゆたか)
    石川3区 -3
    小平忠正(こだいら ただまさ)
    北海道10区  -3
    千葉景子(ちば けいこ)
    神奈川 -30
    細川律夫(ほそかわ りつお)
    埼玉3区(北関東ブロック) -16
    鉢呂吉雄(はちろ よしお)
    北海道4区 -15
    円より子(まどか よりこ)
    ※本名:山 順子
    東京8区 -15
    山下八洲夫(やました やすお)
    ※中国湖北省生まれ
    岐阜 -14
    家西悟(いえにし さとる)
    比例代表 -7

    【共産党】
    小池晃(こいけ あきら)
    東京 -6
    八田ひろ子(はった ひろこ)
    愛知12区 -5
    春名直章(はるな なおあき)
    高知1区(四国ブロック 2位) -4
    畑野君枝(はたの きみえ)
    南関東ブロック 2位 -4
    緒方靖夫(おがた やすお) 東京 -2
    平賀高成(ひらが たかしげ)
    静岡8区 -1

    社会民主党
    三重野栄子(みえの しげこ) -3

    ◎引退した政治家では
    ※引退直前の所属政党と選挙区を記載しています。
     ↓
    佐藤泰介(さとう たいすけ)
    民主 -7
    斎藤勁(さいとう つよし)
    山梨1区 民主 -8
    金田誠一(かねた せいいち)
    北海道8区 民主 -13
    小宮山洋子(こみやま ようこ)
    ※本姓:加藤
    東京6区(東京ブロック) 民主 -12
    岩國哲人(いわくにてつんど)
    自民 -14
    村山富市(むらやま とみいち)
    大分1区 社民 -7
    土井たか子(どい たかこ)
    社民 -8
    渕上貞雄(ふちがみ さだお)
    社民 -8
    石井郁子(いしい いくこ)
    近畿ブロック 共産 -4
    土肥隆一(どい りゅういち)
    兵庫3区 無所属(元民主)-14

    (平成25年5月29日現在)



     

    幻の尖閣切手 琉球政府郵政庁職員たちの気概の物語

    未来に語り継ぎたい日本の歴史 comments(3) trackbacks(0) まったけの嫁
    JUGEMテーマ:沖縄

    こんなお話ご存じでしたか?
    ちなみに、私は、この話を知ったとき、思わず切手をゲットしてしまいました(人*´∀`)*゜

    自由主義史観研究会(代表:藤岡信勝氏)HP授業づくり最前線より

    教科書が教えない歴史
    幻の尖閣切手 琉球政府郵政庁職員たちの気概の物語

    横浜市立中学校教諭 服部 剛

    ■ 不思議な切手

    切手に注目してください。



     1.何が描かれていますか? 疑問に思うことはありますか?
     2.どんな場所ですか?
     3.鳥の名前は何だと思いますか?

     この切手は、1972年4月14日、祖国復帰直前の沖縄で発行された海洋シリーズ第3集の『海と海鳥と島』という切手です。切手にはこの島がどこなのか、海鳥の名前は何なのかまったく示されていません。どうしてでしょうか。

     この島がどこなのか長年の謎でしたが、沖縄県石垣市の尖閣諸島を研究する国吉真古(まさふる)氏の聞き取り調査によって、尖閣諸島と判明しました。
    (※参考:幻の尖閣切手発行顛末〜海洋シリーズ第三集「海と海鳥と島」〜國吉真古

     実をいうと、描かれている鳥は「アホウドリ」です。アホウドリは伊豆諸島の鳥島と沖縄の尖閣諸島でのみ繁殖が確認されている鳥です。

     沖縄の海でアホウドリが生息する島といえば、尖閣諸島以外にあり得ません。この琉球切手は、わが国固有の領土である尖閣諸島をテーマにした唯一の切手なのです

     切手の発行は国家の意思を表すことがあります。青く美しい海に浮かぶ尖閣諸島。その南小島の切り立った断崖でアホウドリが飛翔し、戯れている姿を描いた「尖閣切手」。この切手は、尖閣諸島が日本の沖縄に属していることを明確に主張しています

     尖閣切手は、沖縄の祖国復帰(5月15日)の目前、昭和47年(1972年)4月14日に発行されました。琉球政府郵政庁の職員たちが、この時期に発行に踏み切った理由は何だったのでしょうか。

     この切手が日の目を見るまでには、職員たちの知られざる苦労とそれをはねのける強い意志が存在したのです。

     わが国の領土を守らんとする揺るぎない決心で極秘のプロジェクトを遂行した職員たちの気概の物語を紹介しましょう。

    ◆◆◆

    昭和20年(1945年)、大東亜戦争に敗れた日本は連合国(GHQ)に占領されました。苦難の占領期を終え、昭和27年(1952年)4月28日にわが国は独立を回復しますが、沖縄県はアメリカの直接統治下に置かれました。当然、尖閣諸島も沖縄の1部としてアメリカの施政権下にあります。

    沖縄の郵政事業は昭和23年(1948年)に始まります。はじめは無料だった郵便配達が有料制になり、「琉球郵便切手」が生まれました。沖縄の名だたる画家たちが原画を描き、南国風のデザインと鮮やかな色彩で切手コレクターの間で人気を博します。「沖縄美術の珠玉」と称されたほどです。日本への復帰で琉球郵便が廃止になるまで、261種を発行しました。

    ■ 台湾・中国、突如の領有権主張

     1960年代、折から石油資源の枯渇が危惧されるようになりました。そこで、世界各地で新たな油田を発見しようと調査が進められていました。

     昭和44年(1969年)のことです。国際連合のアジア極東経済委員会による海洋調査で、尖閣諸島の周辺にはイラクの埋蔵量に匹敵するほどの大量の石油が存在すると報告されたのです。

     尖閣諸島は、明治28年(2895年)1月14日に正式にわが国の領土に編入されました。明治18年(1885年)以降、日本政府が綿密な現地調査を行なった結果、無人島であり、かつ、清国(中国)の支配が及んでいないことを確認した上での閣議決定です。

     尖閣諸島がわが国固有の領土であることは、歴史的にも国際法上も疑いようがありません。

     ところが、尖閣諸島周辺に大量の石油が埋蔵されていることが判明すると、海域を接する台湾の国民党政府と中国は、突如、領有権を主張しはじめたのです。

     明けて、昭和45年(1970年)、尖閣諸島をめぐる状況はますます緊迫していきました。200以上もの市町村や経済団体によって「尖閣を守る会」が組織され、大規模な運動がはじまりました。

     これを受けて、琉球政府は尖閣諸島の「領土宣言」を発し、琉球立法院も「尖閣防衛」の決議をしています。琉球政府通産局の砂川局長は、琉球政府が権限を持っている間に、尖閣周辺の石油鉱業権を許可したいと、「尖閣開発KK」の創設に奔走しました。

     一方、沖縄返還にむけての日米協議は、尖閣諸島の帰属をめぐって紛糾しました。なぜなら、米国政府が尖閣を返還協定内に含めることを渋ったからです。日本側は米国の態度に怒りました。沖縄開発庁の山中定則長官らが尽力して、最終的には無事に返還されることになりました。

     そして、ついに昭和46年(1971年)6月17日、「沖縄返還協定」が調印の運びとなり、翌年5月15日に沖縄県が祖国に復帰することが決定しました。

     ところが、この協定調印を挟んで、4月には台湾の国民政府が、12月には中国が尖閣諸島の領有権を正式に表明したのです

    ■ 尖閣切手を発行せよ!

     中・台の理不尽な領有権主張は、国民の怒りを招きました。なかでも沖縄県民の危機感は尋常ではありません。琉球切手の発行を職務とする琉球郵政庁の職員たちも思いは同様です。

    「琉球郵政庁が切手発行の権能を有している間に、尖閣諸島を題材にした切手を発行したい」

     切手の発行によって、尖閣諸島がまぎれもなく日本の領土であるということを刻印したいとの強い思いが湧き上がってきたのです。

     そこで、琉球郵政庁は、尖閣諸島の1つである魚釣島の「地図切手」の発行を計画します。原画を滞りなく作成し、大蔵省(現・財務省)印刷局に切手の印刷を依頼しました。印刷も仕上がり、あとは琉球郵政庁に向けて発送を待つばかりという時、その地図切手の存在が外務省の知るところとなりました。すると、何と外務省は「中国や台湾などを刺激する」として、発行禁止を強く要求してきたのです。

     この時期、中・台は不当な領有権主張をますます強めており、日米両政府は両国を刺激しないように神経質になっていました。

     「こんな時に尖閣諸島を描いた切手などとてもじゃないが発行できない。これで外交がこじれてしまったら一大事だ」ということでしょう。

     沖縄はまだ返還されておらず、米国統治下にあったのですから、琉球政府に対する外務省の要求は米国への内政干渉にあたります。しかし、順調な沖縄返還を望んでいた米国政府が目くじらを立てなかったため、琉球政府は切手の発行を断念せざるを得ませんでした。

     これに切歯扼腕(せっしやくわん:怒り・くやしさ・無念さなどの気持ちから、歯ぎしりをし腕を強く握り締めること)したのが、郵券課長の浜元暁男氏でした。

    尖閣をテーマとした切手発行を、なぜ日本政府は嫌がるのか。長い目で見るなら、ここで尖閣の領有権を明確にしておく方が得策ではないか!

    浜元暁男
    出典:尖閣諸島切手発行顛末記


     海軍予科練出身で剛胆な性格だった浜元課長は、「それならば、せめて尖閣を舞台にした『海洋シリーズ切手』を発行したい」と思いました。

     折しも復帰3年後の昭和50年(1975年)に「沖縄国際海洋博覧会」の開催が決定されていました。この海洋博記念を名目にして海洋シリーズを企画し、これに尖閣諸島を盛り込めば、復帰直前の混乱の中で当局のチェックをごまかせるのではないか、と考えたのです。

    「日本政府が尖閣切手を認めないというなら、巧妙にカムフラージュして、推し進めるだけだ。政府は『琉球政府が勝手に発行した』とすればよい」と浜元課長は強気です。

     こうして、郵政庁首脳幹部だけの「極秘プロジェクト」による尖閣切手の発行計画がスタートしました。

     ただし、万一、情報が洩れて日本政府の知ることになったら、すべては水泡に帰してしまいます。プロジェクトの遂行には、細心の注意が必要でした。

     海洋シリーズ切手は、次の3つで構成されることになりました。
     •第1集:「島と海」(昭和47年3月21日発行)
     •第2集:「珊瑚礁」(同年3月30日発行)
     •第3集:「海と海鳥と島」(同年4月14日発行)

     第1集「島と海」は、実は「魚釣島と尖閣の海」の図柄を計画しました。

    「海上にまっすぐ突き出た岩石の島だけでは、どこの島なのか誰も分からない。何か言われたら、最後まで知らぬ存ぜぬで押し通すぞ」と浜元課長。

     切手の原画を描くためには写真が必要です。そこで、峻険な岸壁が鋸立する魚釣島の雄姿を撮影するために、2人の部下を2週間の出張に出しました。

     しかし、天候不順で部下たちは尖閣諸島までたどり着けず、写真を撮ることができませんでした。この秘策は失敗、やむをえず第1集の題材は「慶良間諸島の海と島」に変更となりました。

     切手の図案を思案しているところに大ニュースが飛び込んできました。昭和46年(1971年)、琉球大学調査団が、国指定の特別天然記念物で絶滅危惧種のアホウドリが尖閣諸島の南小島で生息しているのを発見したのです。この種は地球上で、伊豆諸島の鳥島(東京都)にしか生息していないとされていたので、沖縄中が沸きました。

     そこで、浜元課長はアホウドリを描いた切手を発行することで間接的に尖閣諸島が沖縄に属していることを主張できると考えました。

     浜元課長は第3集の原画を画家の安次富(あしとみ)長昭氏(現・琉球大名誉教授)に依頼します。


    出典:“尖閣諸島切手”発行顛末記


     そして、描く島は「尖閣諸島の南小島」、描く鳥は「アホウドリなり」と注文をつけました。

     しかし、珍しい鳥なので安次富画伯は実物を見たことがありません。そこで、郵政庁長だった渡嘉敷真球(しんきゅう)氏がじきじきにアトリエまでアホウドリの剥製(はくせい)を届けにきます。

    (ちなみに、「尖閣の写真と地図集ブログ」さん記事によると、”このアホウドリの剥製は、今も沖縄の本部(もとぶ)町立博物館に保存されているとのこと。そしてこの剥製を作ったのは、ヤンバルクイナの発見者で、鳥剥製作りの名人だった友利哲夫館長(元名護高校教諭)だそうです。
    :ブログ主加筆)


     さらに、アホウドリを発見した琉球大調査団団長の池原貞雄教授からこの時に撮った写真を借り、調査団メンバーの新納(にいろ)義馬教授から尖閣諸島の情景を詳細に聞き取りました。

     尖閣諸島の紺青の海、波洗う峻険な南小島の断崖、その上空を舞い、岩場で戯れるアホウドリ。安次富画伯は資料を元に描いていきます。完成した「海と海鳥と島」、すなわち「尖閣の海とアホウドリと南小島」の原画は、目が覚めるような鮮やかさで素晴らしい出来映えでした。



     第3集の極秘プロジェクトは着々と進展しました。切手審議会を問題なくパスし、大蔵省印刷局へ送付、日本政府からのクレームもなく250万部が印刷されました。尖閣切手は、誰もが一般的な「海と鳥と島」が描かれていると疑いませんでした。浜元課長の作戦は功を奏しました。

     そして、4月14日、尖閣切手は予定通り発行されました。それは沖縄の祖国復帰、すなわち琉球郵政庁消滅の1ヶ月前のことでした。

     尖閣諸島の研究者・国吉真古(まさふる)氏は次のように述べています。

    「現政府の尖閣への対応は期待外れ。当時の職員は領土に対する強い思いがあったはずだ。多くの人々に認識を深めてほしい」

     身の危険も顧みず、尖閣諸島を守るために極秘プロジェクトを成功させた浜元氏をはじめとする琉球郵政庁の職員たち。その愛国心・愛郷心の確かさに心打たれます。南国風の色鮮やかな尖閣切手は、尖閣諸島の日本領有を主張し続けているのです。

    〈参考文献〉 
    ◆琉球新報 2010年11月1日 論壇「尖閣諸島の琉球政府切手 日本政府の犂馨牒瓩埜犬法


    ◆尖閣諸島文献資料編纂会 『尖閣研究ー高良学術調査団資料集上下』(データム・レキオス)2007年
    ◆読売新聞2012年5月11日 「『尖閣』秘した琉球切手」


    ここまで**



    ■その他関連記事
    ・尖閣諸島切手(琉球切手)Okitom's Blog
    http://okitom.wordpress.com/2010/10/04/%e5%b0%96%e9%96%a3%e8%ab%b8%e5%b3%b6%e5%88%87%e6%89%8b%e7%90%89%e7%90%83%e5%88%87%e6%89%8b%e3%80%80/
    ・尖閣の切手とビデオ
    http://www.asaho.com/jpn/bkno/2010/1115.html
    ・尖閣諸島切手(琉球切手)
    http://www9.ocn.ne.jp/~petro/senkakukiite.html
    ・尖閣諸島・切手発行拒否
    石油資源が原因
    http://www9.ocn.ne.jp/~petro/coffeeroom6.htm
    ・トピック 知られぎる 沖縄切手発行裏ばなし “尖閣諸島切手”発行顛末記
    http://yosihisa.jugem.jp/?eid=379


    ■さいごに、この動画を見て、沖縄の今の危機的状況を知ってください。
     ↓
    【日本人のみ必見!】
    沖縄独立宣言 そのシナリオとはBy惠隆之介氏:
    http://youtu.be/xPgE1CfI9Es



    私たちが語り継いでいくべき真実〜沈黙の世代「大正日本人」たちの偉大な生き様

    未来に語り継ぎたい日本の歴史 comments(3) trackbacks(0) まったけの嫁

    兵士たちがどんな思いで戦地に立っていたのか。
    彼らは何を後世に遺そうとしたのか。
    私たちには、世代を超えて語り継いでいかなければならない「歴史」があります。

     
    【正論】9月号より

    沈黙の世代「大正日本人」たちの偉大な生き様
    門田隆将
    ノンフィクション作家 門田隆将(かどたりゅうしょう)


    ■真実に迫りたい

    −『太平洋戦争 最後の証言』の三部作(「零戦・特攻編」「陸軍玉砕編」「大和沈没編」、いずれも小学館)が完結しました。激しい戦闘シーンの描写が多く、3冊を通して読んで寝られなくなりました。

    門田:「大和沈没編」では、大和の沖縄特攻(昭和20年4月7日)時の米軍機との死闘についての証言も数多く紹介しましたが、高角砲を受け持っていた坪井平二さんの話は、第一波の攻撃だけで219機が襲いかかってきた戦いの凄まじさをよく物語っていました。当たる当たらないは関係ない、撃って撃って、撃ちまくって、音を出していないと発狂していただろうと。

    −どの証言も、光景が目に浮かぶようでした。

    門田:三部作あわせて、最前線で戦った百数十人に取材しましたが、彼らの記憶の鮮明さには驚きました。終戦から67年が経って、時系列が多少あやふやになっていた方もいました。しかし、個々の戦闘場面や光景は、皆さんはっきりと覚えておられましたね。あまりに強烈な体験というのは、どれだけ時間が経っても忘れられないものだということがよく分かりました。

    −「大和沈没編」では、大和が沈没した瞬間からの描写にも力が入っていました。

    門田:沖縄特攻で大和に乗り込んだ3332人のうち、生存者は276人です。10人に1人も生き残れたいないわけですから、運のいい人たちだけれど、なぜ助かったのかが分からない。助かった人の多くも、大和の沈没で生じた巨大な渦に巻き込まれて、海中深くに引きずり込まれた。そこで気を失い、気がついたら海面に浮いていたというんですね。

    今回の取材で分かったことは、助かった人は大和の内部で起きた巨大な爆発で生じた爆風というか、圧力によって海面に吹き上げられていたということです。鶴谷游健さんという人は「火の玉によって打ち上げられた」と証言しました。「30〜40センチの黄色い火の玉が自分のほうに向かってブワーッと飛んできて、そこで意識不明のようになったら、ポッと海面に上がっていた」と、鶴谷さんの記憶が、いちばん明確でした。一方で、あまりの爆風の衝撃で死んだ人も多かったようですが。

    −そうして奇跡的に助かりながらも、海上を漂っているうちに米軍機に機銃掃射されて亡くなった人もいた。漂流している兵を狙うのは国際法違反ですよね。

    門田:レイテ沖海戦では、大和など日本側の艦隊が米の護衛空母を沈没させます。唯一の戦果とも言えるわけですが、漂流する護衛空母の乗組員たちに向けて大和から機銃を撃った人がいて、それを能村次郎副長が「撃つなー」と止めたという証言も紹介しました。戦場とは殺戮の現場であって、人間を狂気にさせます。きれい事の世界ではないですね。

    最たるものが非戦闘員のうえに原爆を2発も落として、都市の市民を焼き尽くしたアメリカの空爆でしょう。これはアメリカだけがひどいのかというとそうでもない。「零戦・特攻編」では、日本が二百何十回も繰り返した重慶爆撃に参加した人の証言も得ました。市内は揚子江を挟んで外国人の居住地域と、中国人しか住んでない地域とが分かれていた。その中国人のエリアを、それこそなめ尽くすように爆撃した。ヨーロッパ戦線でも空襲で市民が大量に死んでいます。

    戦争とはそういうもので、戦争という手段に立ち入った瞬間に、双方とも殺さなければ殺されるという狂気の世界に入るわけですよね。だから戦争を「悪」だというのであれば、双方が「悪」でした。にもかかわらず、日本や日本軍だけが「悪」だったという捉え方、イデオロギーを一方的にアメリカに押し付けられ、それから未だに逃れられてないのはおかしいと思いますね。このシリーズは、そうしたイデオロギーからの視点で歴史を見るのはもうやめよう、真実を見ていこうという思いで取材、執筆しました。

    −真実を見るというと

    門田:当事者たちの証言に立ち返ることです。太平洋戦争を戦った日本軍の主力は大正生まれの若者でした。大正生まれの男子は1348万人いて、そのうち200万人が戦死した。1世代が7人に1人もの割合で戦死するというのは、戦国時代にもなかったことです。この人たち、要するに昭和20年時点で19歳から33歳だった大正生まれの若者たちは、どういう思いで彼らが戦争に参加し、どういう思いで死んでいったのか。そして、どういう運命で生き残ったのか。その人たちの思いを丹念に一人一人拾っていきたかったのです。

    取材をしていて、私は非常に感動することが多かった。みな家族をすごく愛していて、情に満ちた人たちだったということです。

    −肉親との最後の別れを意識した場面も多く描かれていますね

    門田:胸がつまりました。何人もの人が親との分かれの場面で「振り返ったらダメになると思った」というんですね。「お袋に走りよってしまい、そのまま(部隊に)戻れなくなるんじゃないか」と。そして、もう家には帰ってこられないと思っているから、「行ってきます」とは言えない。「行きます」という言葉になったと。

    −先ほどの坪井さんは、最後は言葉が出ず、手旗信号で「行ってきます」と伝えたと証言しています。

    門田:言うと涙がこぼれる。言えない。だから手旗でやるんですよね。そうやってみんな死んでいった。

    彼らは「軍国主義に洗脳されていたのだ」と戦後の評論家や歴史家は言います。しかし、そんな一言で片付けられるようなものでは決してない。国民学校や中等学校で軍事教練を受け、そのまま入隊した人と、高等教育を受けて学徒出陣した人の間でも、意識はまったく違います。学徒出陣した人たちの中には、「天皇陛下万歳!」といって特攻した人はほとんどいません。中には、「俺は、『皇后陛下万歳!』と言って特攻してやるよ」というような話をする人もいたわけです。

    戦争でも、歴史でも、型にはめて考えたり、類型化してみたりすると分かりやすいし、深く考えなくて済みます。GHQに植え付けられ、左翼陣営が大々的に宣伝して浸透した単純な日本・日本軍悪玉論が、戦後日本を覆い尽くし、そういう見方しかできなくなっています。

    いちばん問題なのは、マスコミです。ジャーナリストが自己陶酔している。「戦争は『悪』だ。自分はその戦争を憎み、平和を愛する人間だ」と。もちろん戦争は「悪」だけれども、戦っている双方とも「悪」であるということを忘れてしまっている。そうして、日本軍の「悪」だけを殊更に強調する。自分は良い立ち位置にいると思い込んで、自己陶酔しているから、違った意見は耳に入らない。日本・日本軍悪玉論を言わない人たちは右翼だと非難する。そういうジャーナリストが多くなって、大正生まれの人たちを単に侵略者や犯罪者のように見てしまう。

    「事実であって真実でない」という報道があります。ある戦争ドキュメンタリー番組で、「自分は村民を殺してしまった。今、自分の家族にそういうことをやられたと考えると、両親の呵責に耐えかねる」と涙を流す元兵士たちを取り上げていました。ずっと重荷を背負ってきたのだろうなと思いながら私も見ましたが、実はその編集の仕方にも問題がある。

    日米両軍の正規軍同士による最大の先頭はフィリピンにおける戦いで、日本軍は50万人近くが死にました。日本軍にとっての敵は米軍だけではありませんでした。ゲリラです。行軍途中にマラリアによる高熱や飢えで脱落すると、ゲリラによる惨殺が待っていた。だからゲリラの掃討戦も苛烈を極めた。ゲリラの支援村もありましたから、老兵が証言したような悲劇も起きたわけです。

    本来ならこんなナレーションを入れないといけないはずです。「フィリピンでの戦いは、米軍だけでなくゲリラとの戦いでもあった」「行軍から脱落することは”虐殺される”ことを意味していた」。そして「そのゲリラを掃討する戦いの中で悲劇が生まれた」と。この説明がなければ、日本軍はフィリピンに村民を虐殺しに行ったかのような印象を視聴者に与えてしまいます。悲劇が起きたのは事実であっても、番組は真実を伝えてはいません。しかし、作り手はいい番組を作ったという陶酔感に浸っている。それも、この戦後の流れの中にをった安易な番組づくりということになりますよね。


    ■恥を知る世代の強さ

    −社会で大手を振るっている「正義」というものを、眉に唾をつけて見る新潮ジャーナリズムを担ってこられた門田さんらしい分析です。

    門田:あの戦争は、帝国主義時代にあって必然ともいうべきものだったかもしれません。黄禍論、英米の対日圧迫政策、ソ連の脅威。もちろん、日本にも誤りがありましたが、それにしても、「日本がすべて悪かった」としたのでは、歴史の真実は見えてきません。

    大正生まれの若者が戦って200万人も死んだ結果、アジア各国は戦後独立し、1960年のアフリカ諸国の一斉独立につながった。さらにはアメリカの公民権運動にもつながって、キング牧師の暗殺など大きな犠牲を払いながらも、今では黒人の大統領オバマ大統領が誕生している。これが歴史の客観的な事実です。しかし、日本人が、大きな犠牲を払って成し遂げた歴史的な事実をも自ら封じ込んできました。

    大正生まれの人たちは、他人のために生きた世代です。家族や同胞を守るために戦い、戦後はコツコツと、黙々と働き続けて日本を復興させ、高度経済成長を成し遂げた。そんな男たちを貶めて、彼らが歩んだ歴史を軽んじてきた。その結果、国にも先人にも誇りを抱けず、自分のためだけに生きる人間ばかりになってしまった。権利ばかりを主張し、安易に癒やしを求める人たちです。

    バブルが崩壊して日本がダメになったといわれるけれど、それは違う。終戦のとき20歳だった人は、昭和の終わりには64歳になっていました。つまり大正世代が昭和の終わりとともに社会の第1線を退いた。その後の日本の混迷は顕著です。自分のためだけに生きる世代が社会を動かすようになってしまったからです。このままでは、「失われた20年」は30年でも50年でも続くでしょう。この流れをどこかでストップして、本来の日本人に戻らなければいけない。そのために何が必要かと考えて、他人のために生きて、世界の礎になって死んでいった人たちの証言を残すことが重要だという思いもありました。

    この三部作は、信念と情愛と使命感、気迫、責任感、さまざまなものを持ち、ひたすら突き進んでいった男たちの物語です。何より彼らは、「恥」を知る世代です。ルース・ベネディクトは『菊と刀』で、欧米は「罪」の文化であるのに対し、日本は「恥」の文化だと書きました。まさにその通りで、明治生まれのお父さんやお母さんから徹底的に「恥を知れ」と叩き込まれた。彼らにとって、部隊全員で突撃するときに、「死にたくない」と膝を抱え塹壕で震えているということは「恥」であり、絶対にできなかった。だから、世界中の軍隊で、最も潔く突撃し、尻込みする兵が一番少ないのが日本軍でした。

    戦後は、その潔さ、勇敢ささえ、軍国主義教育のせいだと断罪されてきました。ではアメリカ陸軍史上で最強といわれ、数多くの勲章を受けた日系アメリカ人部隊「第442連隊戦闘団」はどうなのか。ヨーロッパ戦線に投入された彼らは死を恐れずに突撃を繰り返し、3800人の部隊の死傷率は300%を超えた。戦闘のたびに死傷者があとを絶たず、補充を繰り返すのです。彼らはアメリカ育ちで日本の軍国主義教育を受けてはいません。明治生まれの移民1世の親たちに「恥」を教え込まれていたからこその強さだったと思います。

    そんな大正世代の男たちが、戦争に敗れた後もひたすら働き続け、20世紀の奇跡といわれる高度経済成長を成し遂げた。そして今、去っていこうとしている。彼らのいきざまさえ思い出したら、日本はいつでも復活できると信じています。

    −この人たちの戦後編も読みたいですね

    門田:こんな世の中をどう思っているのかも、他人のために生きた世代の人たちに尋ねました。みんな「辛い」と言いましたよ。「なんのために戦ったのか」と言う人もいました。戦後の日本は、そんな大正世代を犯罪者、侵略者として扱ってきた。ひどいもんです。そうじゃないでしょう。ただ家族を守るため、同胞を守るために、凄まじい闘志で自分の命を投げ出していった男たちが、かつて、この国に本当にいたんです。

    −あの戦争で日本は無条件降伏したと言われていますけど、これもGHQの嘘で、本来は有条件降伏でした。たとえば、第1次、第2次両世界大戦の敗戦国で、「領土保全」の条件を得て休戦したのは日本だけです。政府も皇室も維持されました。日本軍のそれまでの決死の戦いぶりから、米軍側が本土侵攻などこれ以上戦えば莫大な損害が出ると恐れ、「有条件降伏」になった。その意味では、大正世代の戦いをまったくの無意味だったと否定するのも、日本軍を不当に貶める歴史観だと思います。三部作で彼らの激烈な戦いぶりを知ると、そのことが素直に納得できます。

    門田:それはよく分かりますね。補給もなく大量の餓死者を出して、悲惨な戦いの象徴のようにいわれるガダルカナル島では、日本軍は米軍にやられっぱなしだと思っていたら、実は仙台の第二師団の「青葉大隊」という部隊が敵陣を突破して、一時的とはいえルンガ飛行場の一部を奪い取っていました。この第7中隊の生き残りの阿部彰晤さんの証言によると、米軍の砲弾や銃弾が飛んできて石も土も岩も全てが砕け散り、身を隠すところもない中を、中隊長の石橋哲治中尉が「死ぬ時は皆と一緒だ」と自ら先頭に立って突撃していった。石橋中尉は、真っ暗な中、後に続く部下たちに見えやすいよう白い欅で背中にバッテン印をつくっていたそうです。

    阿部さんは当時20歳の初年兵でした。「怖くなかったのですか?」と尋ねたら、「怖かった」というんですね。しかし、石橋中尉の背中の欅だけを見て、「中隊長殿はまだ生きている」と突っ込んでいったそうです。そして遂に敵陣を突破した。米軍側は青葉大隊に恐れをなして敵陣から逃げ出していました。しかし、そこで部隊は孤立無援となり、涙ながらの撤退をしたんですが、青葉大隊のこの時の攻撃を、米軍側は「人類が未だ遭遇したことがないほど猛烈なものだった」と『海兵隊公刊戦史』に記しています。

    その勇猛果敢な部隊にも餓死者が相次ぎます。阿部さんが蔓(ツル)の樹液を水代わりに飲んでもらおうと、衰弱していた石橋中尉のところに持っていったら、一口だけ飲んで、「あとは弱っている兵たちにあげてくれ」と言われたそうです。昭和17年11月2日に石橋中尉は戦死しましたが、その約10日前、足を負傷していた阿部さんに「後方へ下がって早く傷を治し、また戦線に復帰しなさい」と命令したそうです。阿部さんが「攻撃に連れていってください。這ってでも参加します」と頼んでも、「これは中隊長命令である」と拒否されたそうです。そうして阿部さんの命を助けてくれたんですね。

    「私の命が助かったのは、石橋中隊長のお陰です」と言う阿部さんに、「いま石橋さんに言いたいことは」と尋ねたら、涙が溢れて、その後は取材になりませんでした。「すごい」と思いましたね。こんな優しい人たちが、圧倒的な火力を誇る米軍の陣地を突破したんだと。


    ■最大の遺産

    −このままでは、大正世代の犠牲が報われません

    門田:大和で生き残った高角砲の亀山利一さんは、呉の鎮守府に戻って残務処理をしたときの話を教えてくれました。大和が沖縄に向けて出撃する前日の4月6日、最後の荷物が陸に行くのにあわせて、乗組員たちが家族に手紙を書いた。その返事が呉鎮守府に届いていた。お金などが入っていないかチェックをするため開封していくと、手紙には「夕べ、靴音がとんとしたで戻ったかと思ったら、そうやなかった」「夢ん中であんたが帰ってきたところをみた」といったような内容ばかりが書かれていたそうです。亀山さんは、亡くなった戦友たちの肉体は滅んだけども、魂は愛する人のもとに無事帰っていったことを知ったと話してくれましたが、私もこの話には本当に安堵しましたね。

    −なぜ大正世代の生きざまは忘れられたのでしょう

    門田:それが戦争に負けるということなのかもしれません。敗戦で日本人の価値観が変えられてしまい、大正生まれの人たちが親から受け継いだことを、子供たちに継承させられなかった。彼らの子どもの団塊の世代は、反権力、反国家、反権威の全共闘世代となり、「親父は古い」と大正世代の生きざまの継承を拒否した。団塊の世代の罪は大きいと思いますね。

    −大正世代の人たち自身も、語ろうとしなかった印象があります

    門田:語らせてもらえなかったし、語ることもできなかったんだと思います。大和の主砲にいた滝本保男さんという人を今回取材しましたが、彼もこれまで戦争については話したことがなかったそうです。息子さんは「なんでおまえだけ生き残ったのか」と言われた経験があるからではないかと想像していました。死んだ乗組員の遺族に最期の様子を伝えに行き、感情的な言葉を浴びせられたそうです。しかも敗戦した途端に、世の中は、自分たちの存在自体を悪であるかのように否定し始めた。そうやって、大正生まれの人たちは戦争を語らなくなったんです。

    では、なぜ彼らが私の取材に答えてくれたのか。90歳前後になって、自分が生き残ってきた意味というものを考えてくれたからだと私は思っています。仲間は全部死んでいった。しかし、戦後67年が経っても自分はまだ生き残っている。なぜ自分は生き残っているのかと考えたとき、「自分が証言を残さなければならない」「亡くなった戦友たちの思いを伝えたい」という思いに駆られたのではないでしょうか。滝本さんは、取材から3ヵ月後に亡くなりました。私の取材に応じたあと、「自分の役割が一つ終わった」という感じで、すごくホッとしたご様子だったそうです。

    −『大和沈没編』の帯には、「なぜ大和は『日本人の希望』であり続けるのか」とあります。その答として、「日本を救うために、誰かが何かをやらなけれなならない時に、大和をつくった人たちがいる。そして、乗組員たちも誇りを持って大和に乗り、一丸となって戦った。それが、希望なんです」という現代の若者の言葉が「はじめに」(前書き)に出てきます。

    門田:沖縄を助けるために3千人を超える人たちが大和に乗り込み、一丸となって死に向かって突き進んでいった。日本人が、自分のためではなく、他人のため、家族のため、沖縄のため、国のために命を投げ出そうとした物語です。すごいことです。他人のために生きた世代の、そのままの行動だと思います。

    実は、「はじめに」で紹介したコメントを言った若者は、息子なんですよ。

    −えっ、そうなんですか。お幾つですか?

    門田:いま高校2年生です。「大和沈没編」の締め切りが迫って、「はじめに」で悩んでいるときに、彼と大和の話をしました。私が「大和と武蔵を造らなければ、飛行機ををれぞれ千機、あわせて2千機つくれたんだよ」と言うと、息子が「お父さん、飛行機を2千機つくってもアメリカには負けるよ」と返してきた。そして、「大和は日本人にとって希望であり、誇りだと思う」と言ったんです。「アニメ『宇宙戦艦ヤマト』の主題歌は知ってる?歌詞の『さらば地球よ〜』の”地球”を”日本”に、『イスカンダルへ 運命背負い今飛び立つ』の”イスカンダル"を"沖縄”に替えて歌えば、それが分かるよ」と。

    -「宇宙戦艦ヤマト」原作者の松本零士さんは、かつて弊誌でこう語っています。「今、惰眠を貪っているように見えるこの国が、それでもさほど世界から侮りを受けずに済んでいるのは、戦争末期の非情悲惨な状況下、究極の奮闘死闘を繰り広げて、その”命と死”をもって立ち向かった数多の戦士たち、日本史上最期のサムライの記憶と残像が、辛うじて面目を支えてくれるのだと信じている」と。平成12年6月号ですから、12年前のコメントです。今もその「面目」が日本に残っているか極めて怪しいですが、息子さんは、松本さんが「ヤマト」に込めた思いをしっかりと受け止めていますね。

    門田:乗組員たちの生きざまは別として、「大和」の建造は「昭和の三大バカ査定」などと言われ、私自身もそれを否定していませんでした。しかし息子の言葉を聞いて、逆に日本人があの戦争で後世に残した最大の遺産だったかもしれないと思うようになりました。

    (聞き手 本誌・小島新一)
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